遠い昔のこと。
うちの妹家族らが公園で遊んでいた。
たまたまその様子を見かけ、家内はある人物に言われたそうだ。
わたしの妹たちには華がなく野暮ったく、その子どもたちは難民の子みたい。
以来何年も経つがその話を忘れたことはなく、ときおり思い出しては考える。
一体なぜ、そんな底意地の悪い言葉を発することができるのだろう。
クリスマスを前に街のそこかしこにイルミネーションの飾り付けが施され、冷え込む夜の景色を鮮やか彩っている。
色とりどりの光に誘い出されるかのように、人出が増えて賑わいが増す。
そんな様子を見て思う。
人にも走光性といった性質が備わっているのかもしれない。
人は光を求め、それを欲しいと思う。
そんな基本的な性質を有している、と考えて差し支えないだろう。
蛾や蝿と異なるのは、単に明るく発光するものに吸い寄せられるだけでなく、光を帯びていなくても輝いていると見えれば、そこに気持ちが向くところだろう。
たとえば、ブランドのバッグや高級住宅街など、さんさんと輝いて人の心を掴んで離さない。
人の世はそんな作為的とも言えるキラキラに溢れていて、それらに執心し争奪戦を繰り広げるのが、人の営み、とまずは見ることができそうだ。
しかし、ひと目見て美しい金閣寺が有するような光とは異なり、うちに宿るかのようであり、読み解いてはじめて理解が及ぶ、銀閣寺が秘めるような光がある。
光の種類が異なれば意見が分かれ、銀閣には華がないと評価しない人があり、はたまた金閣の絢爛豪華をそれが光なのかと醒めた目で見る人もある。
光はつまり観念であり、人それぞれの発展段階によって嗜好異なり、一度は分かりやすい光に目が行っても、次第に心が向く対象はてんでばらばらに拡散し、それこそ人の勝手という話になっていく。
だから皆が皆同じ光を目指して争う訳ではないということになる。
うちの妹二人は野暮だと冷笑されたが、そう発言した人物よりも実ははるかに経済的に恵まれて頭の出来で言えば天地の差、難民の子みたいと憐れみ寄せられた子どもたちも同様。
だから何と言われようと意に介さないでいいのであるが、底意地の悪い言葉はしこりとなって後に尾を引く。
金子みすゞの詩ではないが、
持っていると言えば、もっと持っていると言い、
知っていると言えば、とっくに知っていたと言い、
行ったことがあると言えば、何度も行ったことがあると言う。
聞けば、その人物はそれくらいに勝ち気な性格であり、光あると見ればじっとしていられず駆けて行き、光がないと思えば鼻も引っ掛けない。
光の有無で人をジャッジし、返す刀で、自らもジャッジの対象になっていく。
有なら媚びて取り入って、その反動、無なら安く値踏みし当てこすり焚き付けコケにする。
それで精神的なバランスが保たれる。
なるほど、底意地悪くなるはずである。
お昼を食べつつそのような話をし、家内は納得がいったようだった。