事務所に手伝いに来ていた家内と一緒に帰宅した。
お酒は飲まず、家内の手料理を挟んで食卓で向き合った。
先日、きじ歯科へと向かう途中、家内は大阪星光の前を通りかかった。
いろいろなことが思い出され、ハンドルを握りながらこれまでの軌跡を振り返るような思いになった。
特に思い出すのは子らが幼少時のことであった。
その昔、かなり小バカにされていた。
夫はよく分からないような自営業者で息子たちはサル同然だった。
ぱっとせず貧相で華もないから、お近づきになりたくない。
除け者にされるかのような、そんな扱いを受けた。
そもそもがこちらを下に見ているから、中学受験についても「あいつらでも通るのだから、誰でも通る」と思ったはずで、大学受験についても「あの程度のやつが東大を受けるのだから、やはり少子化、受験はますます易化している」と考えたに違いなかった。
運転しながら家内は思った。
最初にしょぼいのと後でしょぼいのとではどちらがマシなのだろう。
そんな家内の話を受け、わたしは述べた。
もしこの歳になっていろいろなことが先細り、どこかの誰かに生殺与奪の権を握られ、それでも見栄っ張りをやめられず小ウソで体裁を取り繕い、その一方、遺伝の引力が年々強まって子どもたちがそんな自分たちに似通っていく。
表向きは明るく楽しく振る舞ったところで、内に目を向ければ暗澹としたような毎日であるに違いない。
だからしょぼさの比較で言うなら、若さと未来がある分、最初にしょぼい方がマシなのではないだろうか。
わたしは話を続けた。
先日、どこかの事業主さんが言っていた。
歳をとるとだんだん、子どもの話をしなくなる。
なるほど一般的にはそうなのかもしれないが、たとえば33期だと話は異なる。
会えば子どもたちの話で盛り上がり、さあ、これからが本番だと自分たちについても意気揚々と語り合う。
しょぼかろうがどうであろうが、要はそういった相乗効果の得られる場に恵まれているかどうかが大事であって、そういう意味で、自分たちにとって「関係のある世界」と「関係のない世界」があるだけということなのではないだろうか。
そもそも中一の頃からもっさいのが通り相場の大阪星光である。
しょぼいのがデフォルトで、取り繕ったところで中一時点ですべてがバレている。
だからどうであろうが仲間は仲間で、しょぼさで除け者にされることなどあり得ない。
振り返れば、すべてよし。
わたしたちはほんとうに良き人の縁に恵まれている。