KORANIKATARU

子らに語る時々日記

月とスッポン

大阪で仕事していて、スッポンかます、という言葉をよく耳にしてきた。
「あいつ、スッポンかましやがった」、そんな言い方で頻繁に使われる。
そんな基本用語を知らないとも言えず、意味は推測するしかなかった。

スッポンの特性から、噛み付いたら離れないというアグレッシブな意味かとも想像したが、全然違う。
非常にネガティブな、相手を蔑むような意味合いが込められているようなのだ。

語感を素直に取れば、そりゃそうだ。
スッポンかます、という言葉で、強い攻撃性を感じたり、おののいたりなどできはしない。
「てめえ、スッポンかましちゃうぞ」と凄まれて、「いや、待ってくれ、それだけは勘弁してくれ」と防御する態勢には繋がらない。

「スッポンかます」という言葉を現場で耳にする度、異国人のように聞き耳たて検証を重ねてきた。
総合するとどうやら、「屁タレで小狡い人または勘違いしてお高く止まる人が、無様で卑怯または尊大なやり方で不実働くこと、またはその不誠実な様子」といった意味で間違いないのではないだろうか。

意味が納得できてから、私はその言葉を多用するようになった。大人の世界の言葉を嬉しがって使いたがる子供のように。
もちろん、ネガティブな言葉なので、ほとんどは独り言である。
例えば、仕事の場面で、誰にでも分かる小ウソをつかれたとき、連絡待っているのに応答が来ない時、平気でさぼる人を見かけた時、軽くあしらわれて無視された時などに、「スッポンかましやがって」と一人ごちて使っていた。それで結構、すーと胸のつかえが取れるのである。効果抜群。

そして先日、大阪在住の社長さんと話をしていて、嬉しいことにその言葉を使う場面に巡り合うことができた。
その社長さんは、少年サッカーチームの世話役をされている。
要は、チームの円滑な運営に資するため自ら雑用係を買って出ているわけである。

その社長さん、相当に几帳面な性格である。当然、仕事に厳しい。
ちょっと間延びしたような仕事をすると、ウヤムヤになどせず、きっちり詰めて来る。
だから、ボランティアの少年サッカーの用事でも、周囲に手厳しい。

少年サッカーチームの父兄にもいろいろな人、時間を守らない、連絡網を平気で飛ばす、試合に集中せずぺちゃくちゃ世間話する、用事をスキップする、親同士ケンカする、社長さんがいそいそ忙しくしていても手伝おうとしない、そんな方々がいるようで、そんな場面に出くわすと、怒髪天、社長さんは、黙っていられない。

「子供らが真剣にやってるのに、あなた方は、一体何なんだ、恥ずかしくないのか大人として」とその場面を再現蘇らせて、私に向って怒鳴り始めるので、まあまあ、どこにでも「スッポンかます」人はいるんですね、と社長をとりなした。生まれて初めて私は、これまで聞くばかりだった言葉を、発することができた。記憶に刻み込まれた一シーンである。

さて、その社長のお気持ちも分からないではない。
献身的に身を尽せば尽すほど、出鱈目な態度に見える父兄が解せず許せなくなっていく。
しかし、中心的な人がピリピリし始めると、そのムードが固定化していく。

チーム自体だけでなく、父兄の間にも上下関係、先輩後輩の序列が生じ、ちょっとした部活みたいになっていく。
そんな中、ちょっとKY気味の態度にでも出れば大変である。
アマゾン川に放り込まれた生肉みたいに、群がるピラニアに怒濤の勢いで粛清される。

ところで、私も地元で類した雑用係をその昔受け持ったことがあるが、所変われば品変わるで、全体主義的な雰囲気が一切なく、ほとんどの関係者が友好的かつ献身的であり、礼儀かなった適度な距離感のなか、常に誰かが気働きしそっとフォローしてくれるという非常にナイスな団体であった。
お節介にならない程度に人に良くするのが当たり前という美質備えた方々を雑用を通じ一望でき、人間としてたいへんいい勉強になった。
スッポンかます人がゼロという事態は奇跡的な状況であったのかもしれない。

月とスッポン混在し、スッポンが月を悩ませるという構図が世の常なのだろうが、ここが踏ん張りどころ、こっちまで引きずり下ろされてスッポンになっては収集つかなくなってしまう。

スッポンに対しては、高みの見物を決め込むことだ。
天上から涼しい顔で見下ろして、「あっ、スッポンかましてる」と静か朗々と吟ずればいいのである。
度し難いスッポンもいつの日にか天上見上げる日も来よう。