KORANIKATARU

子らに語る時々日記

連休明けに効くシーン

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10月中旬、インフルエンザの予防接種があちこちで始まり今年も終盤に差し掛かったことを思い知る。
ほどなく11月となり巷の遊び人らが今年はどの店でボジョレーを飲もうかなどとソワソワし始めやがて街はすっかりクリスマス模様となり忘年会でたちどころスケジュールが埋まるうち、あれよあれよと大晦日となって正月だ。

これらが相互に関連づき互いに不可欠な恒例行事となっていることが興味深い。

暮れ行く年の瀬を健やかに味わい鋭気十分に良き年越しを迎えるにあたっては、まずはインフルエンザの予防接種だろういう、先人らの智恵を感じ取ることができるというものである。

一旦流行してしまうと手がつけられないインフルエンザであり、かかってしまうと一週間はフラフラとなり日常生活に支障きたすほか、近親者や同僚にもうつしてしまいさらに流行を蔓延させかねない。

予防接種受けていればリスクは大幅に軽減される。
いまや社会生活上のマナーとさえ言えるだろう。

寒さの到来より先回りして予防しておくのが得策だろう。

さて、今年はどこでインフルエンザを受けようか。

痛くない、それがまずは第一番目の選択要素だろう。
では二番目は、、、
一にも二にも、痛くないのが好ましい。

痛くない注射を探すことついては、「そろそろインフルエンザ予防接種の季節である」という過去の日記
が参考となるだろう。


はしごするのもありかもしれない。
痛くも痒くもないはずだ。


面談を終え森本院長に車で明石駅まで送って頂く。

駅周辺はこれから3年間の再開発期間に入り、お気に入りの玉子焼屋は店を閉め、明石に来れば必ず立ち寄るジュンク堂にも閉店の案内が貼られてあった。
行く当てなくぶらつくと、駅のロータリーで誰かが歌い始めた。
ハスキーな音が濡れて震える魅惑の歌声だ。

これは、と思い注目するが、次第に顔面が赤くなってしまう。
歌詞が、これが聞くに堪えない。

明石のタコが赤いのは彼のせいなのではないだろうか。

そのような言葉遣いに強いアレルギー感じてしまうので、具体的にここで紹介するのもが躊躇われる。

終始哀願調であり、未練タラタラで見苦しいほどに依存的。
何かを崇め、熱唱してそれを願望しているが、土下座目線であるから極めてMだし、突き詰めればこれはもうみすぼらしいほどに猥褻だ、ラララ。

せっかくの歌唱力をズタズタに毀損している。
ビジュアルで近似したイメージを描けば、一見、孤高のナイスガイが、女子の腰にまとわりついて足蹴にされてあろうことか顔面歪めてよがっている、という図であろう。

誰か助言してあげるべきだ。
そのような願望が心の底に巣くっていたとしても決してダダ漏れにせず力づくでも胸に押しとどめるべきだろう。
twitterなどでなら浅ましいダダ漏れやクルクルパーなダダ漏れについては目をつむれば済むけれど、熱唱となると耳塞いでも漏れ聞こえる。
対社会においては、全く違う願望を歌った方がいい。

歌声については、明石のスティングだと大絶賛したい。


3連休が続くと、普段の仕事漬け生活で居所不明となっていた「正気」が戻ってくる。
ふと、仕事ばっかりしているのも楽しいことではないのかもしれないという懐疑に囚われる。
それを引き摺ったまま連休明けの立ち上がり、精彩欠いたボンクラ意識のまま仕事場に向かう。

振り払わなければならない。
映画「英国王のスピーチ」で、ジョージ6世が国民に向けた演説のため放送局のマイクへと向かう姿を思い浮かべる。
もはや吃音などと言ってられない。

吃音者が単に喋れるようになったというお話ではない。
どこまでも重い責任に真っ向対峙する人間の荘厳さを讃える映画だ。

スターリン率いる共産国ソビエトが勢力を拡大し、世界に冠たるドイツ帝国を標榜するヒトラーが時代を席捲しつつあった。
平和を模索する宥和政策も行き詰まりを見せた。

もはやナチス・ドイツと戦わざるを得ない。
何々組が攻めて来る、どころの騒ぎではない。

チャーチルがいるからといっても普通の肝っ玉ならビビってしまってお手上げ降参、思考停止に陥る事態だろう。

その非情の緊迫下において、ジョージ6世は国民に対し為すべき義務を語る。
すべての国民に対し、この戦いに集結するよう呼びかける。

それらシーンを思い巡らせ、我が身に立ち返る。
事務所で仕事することなど何でもないことである。