KORANIKATARU

子らに語る時々日記

始発電車は根暗で陰気な日本の縮図


電車で通勤となれば始発に乗る。
いつもどおりホームの最後尾で待つ。

その場所でほぼ毎朝、杖を使う初老の男性をお見かけする。
右足が不自由なようである。

毎回私は、その老人が席にありつけるかどうかやきもきすることになる。
始発電車は思った以上に混んでいる。

たいていは誰かが席を詰めてくれる。
そうでなければ、杖の老人がスペースあるところに自らお尻をねじ込んでいく。
結果的に誰かが詰めることになる。

このように、私はこれまでその老人が席にありつく場面しか見たことがなかった。


しかし、この日は違った。

いつにも増して電車は混み、老人がお尻をねじ込むスペースなどどこにもなかった。
そして、誰も席を譲らない。

老人が杖でカラダを支え吊り革につかまる目の前には、パリッとしたスーツ姿のサラリーマンが並んで腰掛け本に目を落としてる。
どれもこれも年の頃、40代あたりだろうか。

杖使う老人を視認しているはずなのに、誰も立ち上がらない。

もちろん、杖つく老人が前に立てば席を譲ること、と法律で定められている訳ではない。
かといって、そんなことは人それぞれ、人の自由だという話でもないだろう。

杖ついた老人を前にして、しゃあしゃあと座っていられる根性が見上げたものである。
恥という観念もないのだろう。
さぞかし太え有能な人物なのに違いない。

私自身、あちこち世界を旅してきたが、おそらくこんな光景は日本でしか見られないだろう。

エキゾチック、ジャパン。


尼崎駅で私は京都線から東西線に乗り換えた。
東西線は空いているので必ず座ることができる。

腰掛けると、私の前にその老人が座った。

何度もお見かけするが、老人が東西線に乗り換えるのを見たのはこれが初めてのことであった。
少し遠回りしても、座れる方がいいのだろう。

見るともなし、私は老人の顔に目をやる。

かつては痛風発作によって私自身も片足が不自由になった経験が何度かある。

片足に力が入らない状態でずっと立っているのは、かなり堪えることである。

老人もきっとそうであったに違いない
顔を歪めているのはそのせいだろう。
座ってほっと人心地つくといった表情ではなかった。


しかし、いつまでたっても老人の顔の歪みは元に戻らず、それどころか更にきつい厳しいものとなっていった。
杖でカラダ支え立っていたことによる疲労だけが原因ではないようだった。

無念、という言葉が浮かぶ。
無念極まりない。
老人はそのような心情にいま必死に耐えている、そのように見受けられる。
そうとしか考えられなかった。

悪い足を杖でかばって毎朝始発で勤めに出る。
席を譲ってもらうのが当たり前、という依頼心とは無縁の人物であるように思える。

そんな足を持つ自らが悔しくて仕方ない。
席にありつくため毎朝電車で格闘しなければならないこの身が情けない。

老人の沈痛な面持ちからそのように汲み取れた。


私もいたたまれないような気持ちとなる。

本当にがっかりだ。
杖つく老人が立ち、前に壮年の男子がどっかと腰を下ろす。
目にしたくない光景に触れてしまった。
残念無念にもほどがある。

私は、彼らのネクタイでも掴んで、おいおい、と声をかけるべきだったのだ。
押し黙っていた我々は何と根暗で陰気な役立たずであったことだろう。

世界のどこであっても目にすることができる、ちょっとしたいい光景が日本でますます根絶やしとなっていく。

厚顔無恥に座り続ける勤め人風情だけでなく、見て見ぬふりした同乗客も互い互いに手を取り合って、殺風景な光景を生み出していたようなものである。

そして想像してみる。
日本中至るところで、このような冷え冷えの光景が日々積み重ねられ、ひそか人々は表情を歪めるも、しかし誰にも顧みられず人心が少しずつ少しずつ荒涼化していく。

まさかとは思いつつも、あながち的外れでもないような気がする。

美しい日本。
美化ばかりしてる場合ではないのかもしれない。