KORANIKATARU

子らに語る時々日記

何十年か越しの掛け合い漫才

韓流は日本のドラマと異なる。
ほんの10分、見るともなし眺めるだけで違いに気づく。

韓流では嫁と姑の絡む場面が頻繁だ。
嫁と姑、双方の視点から理想とギャップが描かれ、それがドラマに不可欠な要素であるかのように両者の愛憎劇が挿入される。

一人、ご婦人が登場すれば、まずは三つの側面から素描される。
母として、妻として、そして嫁として。

日本においては、嫁という言葉はあっても制度的な概念としては希薄化しつつある。
それゆえ、嫁姑関係がドラマの要素となって描かれることはあまりない。

悪く言えば、前近代の名残りが韓国には残っていて、良く言えば、古き良き婚姻制度の伝統が息づいている、と言えるのかもしれない。

ただ今後は、世の流れには逆らえず、韓流においても、家制度に根ざした嫁という概念は現在の日本同様に有名無実化していくのだろう。

そしてもちろん日本においても状況は加速し、嫁という言葉は死語に近い因習的なワードとして振り返られるだけのことになっていく。

そうであれば、うちの子らが女房をめとるときには、その女性とわたしたち夫婦はあまり関係がないと最初から心得ておくのが賢明かもしれない。

うっかり時代錯誤して、うちに娘が来たようなもんだとバンザイ三唱小躍りして喜べば、彼女からの白眼視は免れない。

義理の父や義理の母の「義理」はいま、義理チョコほどの重みもない。

だから、もし万が一、運良く誰か伴侶を選ぶという立場に君たちがなった場合、嫁としてという切り口で思案する必要は全くない。
入試に関係のない副教科みたいな要素であり、そこに配点するなど、未来においては暴挙となる。

シンプルに、自身の妻として、子の母としてどうなのか、そこだけ検討すれば十分だ。

妻としての判断は簡単だ。

世間一般、たいていの夫婦がそうであるように、いつかはベテランの漫才コンビみたいに付かず離れずといった関係になっていく。
そうと知ったうえで、次にまた誰かとコンビを組むとなった場合でも、彼女を選ぶ、そう思えるなら妻として申し分ない。

ときにヒートアップするボケとツッコミの掛け合い漫才。
それが夫婦の実質であり、良し悪しの次元を超えてその積み重ねだけが夫婦の全てとなる。

母としての判断も簡単だ。

子の幸福を先食いするような、子の安全安心より自らの娯楽を優先させるような未熟なエゴの持ち主でなければ大丈夫。

未熟なエゴは、何かぽっかり心に穴でも空いているのか、それを埋めるため真っ先自らに愛情を注がねばならず忙しく、とても子の世話まで手が回らない。

心静かに満たされた女性であれば、いまさら自分自身にかまけることもなく、子が生まれれば自ずと子が最優先の位置付けとなるであろうし心満ちた在り方もまたごく自然に伝わっていく。
つまり母として申し分ない。

韓流ドラマは人を思索へと誘う。
今日の日記で、大事なことを子らに伝え損ねる心配がなくなった。
これで安心あとは任せた。