冷え込む朝、毛布の感触が心地よく、そろそろ起き出さねばならないなんて信じ難い。
ずっとこのままがいい。
そんな安楽な生涯を夢想するが、仕事のことが頭をめぐり始める。
ああ、うらめしや仕事。
負わねばならぬ重き十字架を恨みつつ、負荷ゼロの世界から起き上がった。
この日はゴミ出しの日だった。
いつも決まってうちがまっさきにゴミを出す。
遅れを取ると捨て場のスペースが狭まってカバーを被せるのに手間が掛かる。
それが嫌なので、最初に出す。
この日も同様。
町一番にゴミを出した。
そしていつものとおり家に戻って顔を洗ってヒゲを剃り、新聞紙面をめくってコーヒーを飲んだ。
次第、空が明るくなって東の空から差す陽に照らされた。
ここまでくると助走終わって気分は大いに盛り上がっている。
寝床では腰が引けていたのに、なるほど負荷あってこその活性。
さあ来いと気持ちは仕事の側に踏み込んで、バットをブンブン振る状態になっている。
で、思ったのだった。
思考のアウトプットは時刻によって様変わりする。
寝床では後ろ向きなのに、朝陽を浴びた途端に前を向く。
何か考え出す場合、前者と後者とでは全く別人がしたような結論になるだろう。
どのみち向かっていくとの結論を出せねばならぬ身である。
であれば、ものを考えていい時間とものを考えてはならない時間があるということになる。
寝起きの混濁時やぐったり疲れているときなどは思考をオフにし、まずはゆったり活性の到来を待たねばならない。
活性が不在のまま難題に組みしても、徒労が積み増しになって悪循環を招き寄せるだけだろう。
といって、活性が向こうに触れて万能感へと至るときも、結論は保留にした方がいい。
自らを過大視して導き出される結論は実用に堪えない。
起きてコーヒーを飲み、朝陽を浴びる時間にだけ大事なことを考えて結論をくだす。
そのように日常のなかに自身の時刻を定めると、無駄が省けて振りがシャープになり、かつ真芯に当たって鋭い打球がかっ飛ばせる。
そう思えるので今後しばらく試してみようと思う。