霞亭を後にし家内と運転を代わった。
途中そうめんの里に寄っておみやげを買い、網干に寄って業務に臨んだ。
予定通り30分で打ち合わせを終えてクルマに戻ると家内は英会話のレッスンを受けていた。
ともに30分を有効活用する夫婦なのだった。
時刻は午後4時半。
そこから一路、赤穂へと向かった。
せっかくだからと前夜になって宿を探し、幸いなこと銀波荘に空きを見つけることができた。
温泉がよく眺めがピカ一で食事も素晴らしい。
骨休めにもってこいの宿と言えるから、ほんとうにわたしたちはついていた。
所要一時間足らず。
ちょうど日暮れの時刻に到着した。
夕陽と言えばわれらが本拠地である四天王寺夕陽丘が筆頭に挙がるが、その次に来るとすれば京都の夕日ヶ浦かここ赤穂だろう。
黄金色に染まる銀波を眺めて、すでにその瞬間に癒やされた。
夕飯を終え、早速露天の湯につかった。
薄暮といった時刻。
漆黒の度を増す海面が灯台の光に一定間隔で照らされ、穏やかで静かな波の動きが目を和ませた。
次第、心までゆったりくつろぎ、つくづく感じた。
これぞ旅。
旅することで心象があらわとなって気づきが得られる。
わたしがこのとき意識すべきは、まさにいま視界に収まる穏やかな海そのものだった。
その姿こそわたしの心を映し出すべきものであって、そこに波風立てることがどれだけ愚かなことなのか、わたしは一目瞭然のもと諒解したのだった。
この歳になりいろいろなことが落ち着いた。
仕事も暮らしも順調で、つまり、わたしの心はまさに眼前の海の穏やかさを湛えていてしかるべき状態と言えた。
だから注意すべきは感情だった。
すべての誤りは感情の良からぬ起伏に端を発する。
そう自らに言い聞かせ、底しれぬほど奥深く、ゆったり揺蕩う海の表情を自らの内面へと刷り込んでいった。
穏やかならざる荒波が、時々わたしの周囲を通過する。
いちいち取り合って乱されて、それで得られるものなど何もない。
もはや動じる必要もない海へとわたしはたどり着いたのであるから、周囲がうねって荒れれば荒れるほど、一層、寂として静まり返る。
そうあるべきなのだった。
湯が媒介となって、いつしか眼前の穏やかな海とわたしの心はひとつに混ざり合った。