業務量が減って昔に比べて楽になった。
これはもしかしたら錯覚かもしれない。
かつては荒削りな感じで時間を消費していた。
よくよく考えれば、忙しかったというのは大括りでテキトーな記憶の産物がもたらす取り違えだろう。
例えばその昔。
土日というひとかたまりで仕事に勤しんだ。
が、ずっと根を詰めていたかというとそうではなく、事務所には出るものの午後は走って夕刻には映画をみるなど仕事密度という観点で言えば中身はスカスカだった。
いまはそんな土日を過ごすことは一切ない。
土日はたいてい仕事せず、平日も外回りが増えぶらぶら感は増えたが、折々カフェなどに入ってここ一発の集中度で仕事をこなしている。
大雑把に見れば非稼働に見えるが、実のところ分刻みで仕事して、実際、日常の雑事は後回しにされていく。
つまり、忙しいということである。
その点で、ぼんやりと仕事を先延ばししそのアイドリング時間も含めて拘束感を覚えていた過去とはまるで異なる。
昔に比べてずいぶん楽になった。
これは業務量が減ったというより、仕事の生産性が格段に増したことで生じる感慨と言えるだろう。
そしてこの仕事能力の進化発展は次のステージの準備が整いつつあることの表れとも感じる。
そう思えば楽しい。
この歳になって定年という黄昏とは無縁で、先々、楽しい。
実に恵まれた話ではないだろうか。
もちろん人間であることに由来する生得的な不安と無縁になる訳ではない。
何かを失ってしまうのではないか。
そんな得体の知れない不安感が相変わらずこの身体につきまとうが、それを押し返すことができるのは「楽しみ」だけとこの歳になってつくづく感じる。
そういう意味で人は楽しみへと向かうようセットされている存在と見ることもできるのかもしれない。
悪銭苦闘の試行錯誤を経て、楽しみに行き着く。
人生は逆説に満ちている。