日曜のヒロコーヒーの混みようは尋常ではなかった。
並ぶことを断念しクルマを走らせ、西宮駅近くのコメダ珈琲に行き着いた。
家内にとってはじめてのコメダ珈琲だった。
まずサンドイッチの大きさに目を丸くし、ビザトーストの内側にまでたっぷり詰め込まれた卵の分量に驚いていた。
これでジム活をこなす腹ごしらえが整った。
プールがガラ空きだったことも手伝ってゆうゆう50分ほど泳いだ。
その後で筋トレしサウナを終え、それでまだ午後2時。
家に帰って、断捨離に励んだ。
そんな平穏至極な日曜を過ごしつつ、わたしは「死」について考えていた。
日々、元気に明るく過ごし、先々も楽しみに満ちている。
であっても、幸せの総量が更に膨らんで幸福感が倍増する訳ではない。
それどころかふとした拍子。
ちょっとした心配や不安が水面に落ちる雫のようにじわじわと広がって、幸せな色彩を一気に昏く不吉な色調に塗り替えてしまうということだって起こり得る。
つまり、この幸せは風前の灯にも喩えられ、ああなんて儚いことなのだろう。
そもそも、わたしという「生の矢印」はいつかどこかで非存在に呑み込まれ跡形もなく消えてしまう。
その先には破線の矢印が続いて実は「わたし」は向こう側にて存続すると主張したところで、それはもうただ信心の類の話だろう。
そのように一抹の空しさを覚えつつ、疲労のせいもあったのか何となく消沈した気分で過ごしていたが、夕刻には異なる視点が生まれて、多少は気持ちが浮上した。
わたしという「生の矢印」が壁にぶち当たって潰えても、地上には無数の矢印が存在し、元気ハツラツ、わたしの壁のその先へと勢いよく伸長していく。
消え去るわたしに焦点を当てるのではなく、その先へと続く矢印の方に着眼してみる。
するとどうだろう。
その賑やかさによって虚無が一気に薄らいだ、といったような気持ちになった。
この歳になれば我が身にこだわるより先の先へと視点を移し、そこで暮らす矢印たちのことを思う方が有益で、それで巡り巡って自分自身も元気になれる。
巨視的に見れば、未来の社会や人類のあり方。
微視的に見れば、息子たちの人生や今の事務所の今後の行方。
わたしが謳歌する「いま、ここ」が終わったとしても、あとには別の「私たち」の「いま、ここ」が引き続いていく。
この手で直接触れることはできなくても、彼らの光のほうへと気持ちを向けるだけで、心がじんわりと温まる。
未来の卵に活気を灯す。
そんな役割が果たせるとすれば、これはもう元気の出る話以外の何ものでもないだろう。