大勢でつるむのではなく、二人で向き合う。
一対一の関係こそが、互いを育み関係を深め、成長を促す最強の単位と言えるだろう。
二男が上京して最初のクリスマスのこと。
中高時代のホッケー仲間が一人で過ごすと知った。
それで二男は女子友との約束をキャンセルし彼を誘って一緒に日比谷のクリスマスマーケットを訪れた。
女子友にはともに過ごす家族がいた。
一方、そのホッケー仲間は一人っきりだった。
やはり大阪星光。
「ともにある」のが当たり前のことなのだった。
男二人。
イルミネーションに彩られた街を肩並べて歩いた場面は、後になればなるほどその意味を増していくことだろう。
小学生の親友とも忘れがたいエピソードがある。
ともに中学受験を無事に終え、別々の男子校に進んだ。
ある日曜、二人で梅田に出かけた。
さあ、何を食べよう。
二男の頭の中には、わたしが話したグランフロント大阪の「白雲台」のことが残っていたらしい。
それで友だちを誘って訪れた。
店員さんは優しく見守るように接してくれた。
二人は有り金について胸襟を開いて話し合った。
焼肉の盛り合わせのうち、ファミリーセット4,300円にはぴたりと手が届く。
二人は他の品には目もくれず、その盛り合わせだけを注文し仲良く分けた。
このように二人で過ごす時間は、後々まで美味しい格別な思い出となる。
そうした「二人の関係」は、二男の人生を通じていくつも生まれ、豊かに育まれていった。
66期から東京へと進学した者のなか、たった一人、一橋大学の男子がいた。
二男が住む高円寺に触れ気に入って、彼はすぐに越してきた。
結局やがて早稲田にも馴染んで、他大学なのに早稲田の歴史あるサークルで幹部にまでなった。
彼は飛び抜けていた。
ユーモアのセンスも図抜けていたから、星光生の間では半ば冗談で彼は吉本興業に行くのではと目されていた。
ところが今はもうアイドル。
もはや簡単には会えないのだろうが、大阪星光のつながりは褪せない。
昔のまんま、また連れ立って遊ぶこともあるのだろう。
そんな「二人という組み合わせ」について思い至ったのは、先日、二男に電話をかけたからだった。
二男はそのとき友だちと一緒にいた。
昔々、二男が大学一年のときのこと。
自動車教習の合宿で、筑駒から東大理三に進んだ男子と仲良くなった。
この夏はこっちに来て一緒に万博見物するのだという。
電話しながら、ニューヨークに詳しいその理三生の助言を得て航空券を予約した。
二人という単位になったときピーターの存在も忘れてはならないだろう。
数年前、二男はニューヨーカーと知り合った。
場所は高田馬場。
意気投合しやがて箱根や熱海、京都、大阪など一緒に旅するまでの仲になった。
そしてこの夏、今度は二男がピーターに会うためニューヨークを訪れる。
どうせならと家内も便乗し、母と子でニューヨークという話が生まれることになった。
それで航空券を買い求めたのだったが、この母と子の一対一など、そもそもの始原。
命を繋いだ関係とも言えその絶対性において他と比較にならないだろう。
そのほか、数え上げればキリがない。
大阪に来ればやんちゃだが実に優秀な従兄とつるむし、東京ではいずれも優秀で優しい従姉妹たちとも個々集う。
もちろん一対一の極め付け。
兄貴は別格。
彼にとって不可欠。
実に大きな存在と言えるだろう。
そしておまけがわたし。
今度大阪に帰ってきたとき、家内は旅先にいて留守なので、わたしは二男と二人で食事する。
二人という最小単位だからこそ、言葉を超えて互いの心に届くものがある。
家族、友人たち。
様々な顔が思い浮かぶ。
残りの人生、この一対一を意識して大切にしていかねばならない。