小さなラガーマンたちと、永遠の兄貴分

芦屋ラグビースクールから受けた恩恵は、計り知れない。

 

息子たちがジャージを脱いだ後も、わたしたち夫婦はつい、あのグラウンドの出身者を探してしまう。

そして見つけては、まるで身内の子の活躍を願うように応援を続けてきた。

 

その筆頭が、小林賢太選手だろう。

早慶戦では早稲田の小林と慶応の佐々木を応援した。

 

観客席の慶応OBのおじさんたちが「あの早稲田の選手は速いな、慶応に欲しい」と唸るのを聞き、嬉しく思ったことが記憶に新しい。

 

息子たちは当初、ラグビーの練習を嫌がった。

安息の日曜、何が悲しくて泥にまみれてぶつかり合わねばならないのだ。

 

幼い彼らにとって、それは理不尽な試練でしかなかった。

だから日曜の朝になると、彼らは巧みに身を隠した。

 

それを半ば無理やり抱きかかえ練習場まで連れていくのだったが、まもなく、ラグビーがもたらす不思議な高揚感に彼らは取り憑かれていった。

 

いつしか言われるでもなくシューズの紐をきつく締め、家の前の公園でウォーミングアップを始めるまでになった。

 

当時、芦屋のグラウンドでひときわ目立ったのが小林賢太だった。

でかいが優しく、いつだって真面目に練習に取り組む。

まるでお手本のような存在だった。

 

その彼が、時を経て、文字通り日本を代表する選手になった。

いまや芦屋ラグビースクールの「シグネチャー」とでも呼ぶべき存在だろう。

 

忘れられない光景がある。

2011年、長男が小学5年の時の夏合宿のこと。 

小林選手は6年生だった。

 

当時、6年生のメンバーが少なかったこともあり、長男が6年の紅白戦に駆り出された。

 

そこで彼は、小林賢太と対峙した。

結果は言うまでもない。

パワーもスピードも、まったく歯が立たなかった。

 

そりゃそうだろう。

もし一学年下の息子が彼と拮抗していたなら、今頃、国立競技場の舞台に立っているのはうちの息子だったということになる。

ははは、それこそあり得ない。

 

あの日、長男は体ごと吹き飛ばされながら、おそらく初めて「本物」のスケールを肌で感じたに違いない。

 

ちなみに、その地獄の夏合宿を経て、その年の秋、長男の学年は兵庫県大会を制した。

思えば、あの学年はまさに人材の宝庫だった。

 

兵庫県ラグビースクールには李承信が、伊丹には福西、喜連、尼崎には石田がいた。

 

名勝負が続いた。

特に、引き分けとなった準決勝の伊丹対尼崎戦は両者一歩も引かぬ互角の死闘が繰り広げられ、今も鮮烈に記憶に残っている。

 

そんな強豪たちを抑えて優勝できたのは奇跡のような話だった。

芦屋チームに入ったばかりだった新和田選手の目覚ましい活躍もさることながら、うちの息子もフォワードとして果敢にぶつかり、チームを勝利へと導いた。

 

勉強させるより、ラグビーの強い学校に行かせてください。

恩師とも言える野口コーチからそんな助言をいただいたが、長男は中学受験を経て、第一線からは退いた。 

しかし、芦屋ラグビーで埋め込まれたDNAは確かに受け継がれ、その後に活きた。

 

一方、二男はラグビーからフィールドホッケーに転進し、一気に頭角を現した。

あの過酷な練習で培った体幹とガッツが結実したからに他ならなかった。

 

25日の土曜、国立競技場にうちの二男が駆けつけ、日本代表の背番号1に熱い声援を送った。

長男は長男でその姿を画面越し胸に焼き付け、自らの戦いへ踏み出す力を受け取ったに違いない。

 

かつて芦屋公園のグラウンドでそうであったように、いまも引き続き小林賢太は永遠の兄貴分であり、より巨大な力で芦屋ラグビーの皆を率いているのだった。

 

時はハロウィーン。

仮装して戯れる男子らが界隈に出没する季節になった。

 

だからこそより一層、かつての小さなラガーマンたちが、それぞれの場所で地道に努力を重ねている姿に熱いものを感じる。

 

同時、芦屋ラグビースクールに感謝の念が湧くのだった。

あの環境があったからこそ。

 

息子たちはよき伴走者を得て、力強く泥臭く歩み続けることができている。

 

そして、かつてのチームメイトも同様。

永遠の兄貴分の後に続く「小僧たち」のなんと頼もしいことだろう。

2025年10月25日 国立競技場 日本対オーストラリア