KORANIKATARU

子らに語る時々日記

脱・非「力」の心得

飲み会は楽しい。
数々の料理を堪能し、お酒を酌み交わし、四方山話に花咲かせる。
至福の時である。
思い掛けない出会いや交流が生まれ、生涯の知己を得る。
素晴らしいことだらけ。
ああ楽しい。

先日飲み会の最中、着信があった。
新進気鋭の若い経営者からの電話であった。

20代半ばだが、これは本当に凄まじい男で、その雰囲気は名状しがたい吸引力を放つ。
昼夜休まず仕事するだけでなく、驚異的な頭の回転と度肝抜く営業能力で、常在戦場の中、辺境から勝ち上がってきた無敗の仕事人である。
すっくと立って、数百人の指揮をとる。
クロヒョウのような風貌で大食漢。
回転寿司を200皿平らげ、知能指数は確実にそれを上回る。
営業の世界で他の追随をゆるさぬ立志伝中の存在。
彼を目指しどんどん人が集まり、彼の後を人がわんさかついて行く。
時代の波をかいくぐり彼がどこまで大きな仕事をするのか見物である。

着信に気付かぬなど、士業の端くれなのに、不覚を取った。何度も電話がかかってきていたのに、全く気付かなかった。
飲み会に浮かれ、携帯という刀を手にしていない状態であったのである。
ようやく気付いて電話に出るが、相手の声は聞こえ難く、向こうにはこっちのワイワイガヤガヤだけが伝わっている。
何とかギュウギュウ詰めの席を押し分けて外に出て電話するが、話し中。
ようやく電話がつながった時、私への質問は、粗方すでに解決済みであった。

思い知った。
飲み会に参加し、酒が入って気持ちユルユルとなった時の、なんという無防備さ。
討ち入られたら、惨死は必至。
若い人間が精出し働き助力求めているときに、それに気付かずヘラヘラ酒飲んでるなんて、「いい気なもんだ」という自嘲を抑え難い。

この間抜けな事態を、非「力」の状態と名付け、今後の戒めとする。
非力が慢性的に力のない状態を指すのに対し、非「力」とは、余力あるのに「力」が不在となり機能していない状態をいう。

個人自営業者にとって、非「力」とは、丸腰ノーガードの危機的状態と言える。
組織の傘に守られている訳ではない。自分以外の誰かが何とかしてくれるのではない。
危機と背中合わせなのは野生動物と同じようなもの、常に目を光らせ、非「力」となる状態について十分に意識的でなければならない。

最も恐れなければならないのは、知らず知らず非「力」状態に浸かり切って、それでも気付かず、「力」がすぐにでも発動できるような錯覚のまま、回復不能なほど非力な男となって埋没してしまうことだ。
非「力」は伝染し、同じ土壌に群生、そして拡大していく。
アタマもカラダもカスカス程度働かせるだけで十分なので、非「力」の世界に封じられるのは男として面白くないに違いないのだが、日々のささやかな内向きの楽しみが一つでもあれば、やり過ごせないこともない。
そのまま尻すぼみ、力の備蓄はみるみる失われ、男子として枯渇していくのだけれど、今晩飲む酒がおいしければ、それでいいやとなってしまう。

老境に差し掛かる京都のパチンコ屋オーナーの話が忘れられない。
阪神タイガースの話に興じていたところ、淡々と話題に入ってきた。
「そうか、若いのに野球観るんか。わしは野球なんか観たことないわ。ずーとずーと仕事しとった、必死やった」
相手の話に水を差すようなトーンでも難詰するようなトーンでもなく、日本も平和でよおなりましたな、という素直な感慨で発せられた言葉であった。

身近なところでは、私の祖母なども人生通して働き詰めであった。
衣料品などをどっさり担いで、バスと電車乗り継ぎ、南河内方面にせっせと行商に出ていた。
経済的に立ち行くようになって働く必要がなくなっても、足腰の立つ限り行商をやめることがなかった。
行商に一緒についていき、子供心に気恥ずかしさを覚えたものだが、その町々をいま仕事で訪れると、胸が詰まる。

一切手を抜かず、厳しく生き抜いた先人がいくらでもいる国である。
何不自由なく暮らせる天国のような豊かな国となって、そこかしこ退廃的に非「力」に安住する人が増えているようにも見えるが、それも、状況が許す限りにおいて繰り返される一時的な現象だろう。

子らを塾に通わせ、公文、算盤、プールも習わせ、挙句に、泣いて嫌がるラグビーの練習にまで参加させることを、子の自主性も考えずに無理させて、子供が挫折してアホになるという意見も聞いたが、こんなに豊かな天国のような国で、「紛いもののゆとり」に骨の髄までどっぷり浸かった方が、アホになる。死ぬまで治らぬ絶望的なアホウになる。
そんな程度のしんどいことで挫折するほど人間はヤワではない。
親がわざわざ、子の環境を、非「力」な状態のまま慢性化させることはないのだ。
嫌いな野菜を少しでも食べさせるように、折々心を鬼にして、しんどいことを与えてやるのが親の務めだろう。

非「力」の世界に居座ることがないよう、「力」向ける対象を探してでも、常なる脱却を習慣とすることが大事である。
そうじゃないと、何が自分を本当に強め、高め、成長させるのか分からなくなるし、それが分からないと、無為である。
ときには、非「力」の世界で思いっきり心身休めることも大事だが、自分がいまどんな状態かいつも心を配って、できるだけ「力」の側にあるよう心掛けるのがいい。非「力」側にあるのが居心地悪いくらいになれば安心である。

そうして、十分に奮闘した後は、仲間と宴を存分に楽しもう。
もちろん、刀は常に手の届く範囲に置きながら。