KORANIKATARU

子らに語る時々日記

何とも屁のような

子が通う小学校の話を聞くにつけ、この世の果ての愚かさをほしいまま垂れ流しているような教師がいて、呆れ返る。
程度が劣悪。「実社会」では箸にも棒にもかからないはずだ。
子供の失笑買いつつも、それに全く気付かず、噴飯物の説教をおためごかしに連日繰り返す治外法権下の裸の王様。

教師の大半は、領分弁えた有能な方々である。
ところが、教師の職分を誇大妄想し、やることなすこと害悪となっていることに気付けないほど無能な輩がいるのであった。

「子の成長」をテーマに掲げるのはいい。
様々な活動、仲間との交流から数々学びを得て、子らは各々のペースで成長していく。
それを見守りサポートする役割、触媒としての作用を教師が見出してくれるのは有り難いことである。

しかし、頼んでもないのに、しかもその必要もあるとは思えないのに、「この子たちを変えて見せます」と周囲に宣言しいきなり事を始めてしまうような姿勢を聞くと、いびつな精神状態の教師であると危うさを覚える。
しかも、一人一人の児童に、自分の悪いところを5つ挙げさせ、それを「治す」と皆の前で宣誓させるというのだ。
およそ教師が自ら進んで踏み込んでいい領域ではない。
その教師が有する万能感に、ブレーキ壊れて肥大した奢りと人間としての稚拙さを、感じ取らざるを得ない。

この教師は、子を成長させるための秘策を体得していると思いこんでいるようだ。
子の成長を促進させる切り札は、教師立ち合いの中での、徹底的な「話し合い」。
授業もそっちのけ、子らの帰宅時間もお構いなし。
そもそも塾といった存在意義を端から否定しているので、塾があるから話し合いの途中で帰りますといったことを認めない。
この教師からすれば、塾というのは、公立小学校の地域コミュニティに亀裂を生じさせ、子らの友情を分断し、自分よりも遥かに上手に勉強を教えるという、悪の権化なのである。

話し合いといっても、子供たちが思ったことをハイハイ手を挙げ発言し、それを教師が止揚し、あるべき結論に導くといったやり方ではない。
子供たちは、その教師に叱責されないよう、あらかじめ結論を顔色読みながら推測察知し、求めらる順に「意見」を発表していく。
方向性誤ったとんちんかんな発言をすると嘲笑の的となり、大目玉を喰らう。
反対発言などしようものなら、意見の背景を斟酌される余地もなく却下され、無間地獄のように打ち続く叱責の刑に処せられる。

教師の狭すぎる観念を遥かに超える器をもつ子供たちの「もう分かった」という無言の大合唱に気付くはずもなく、教師は、延々、とくとくと同じ話を繰り返す。
粗悪な思い込みと狭量な偏見に満ちた非論理的な話が際限なく続く。

これはもう一種のパワハラだ。相次ぐ教師の猥褻行為も困ったものだが、パワハラも考えものである。
彼が述べる「成長」の成果など出るはずがない。
成長どころか、子らをストレスフルな状態に晒し続け、卑屈でおもねる子を作り出しているだけ、表向きだけエエ子ちゃんになって他者不在の世界では何でもありという心根歪んだ児童を生みだしているだけではないか。
面従腹背ならまだ罪が軽い。
子供なんて自我がまだまだ未成熟である。こんな教師にあたった時、ついつい承認されたいという方向に流されたとしても責められない。
その教師の価値観に迎合し自ら進んで染まっていく。
三つ子の魂百まで、ボスにへつらいごますり徹頭徹尾付き従うという在り方が、今後の彼らの基本形となる。
末は博士か大臣か、どころではない。
末は、従順な末端労働者。
率先して理不尽な被支配の世界で隷従し、使い勝手のいい労働者となっていく。

この教師、父兄に対しては、拍子抜けするほどヘラヘラしており、何とも屁のようである。
察するに、「話し合い」は、この教師の自己実現の場のようだ。
自らの権力欲を満たす、という実益をそこから得ているのだろう。
大人だらけの「実社会」では、あまりに卑小ちんちくりんで、あふれこぼれるほどの自らの権力欲をとても満たすことができない。
しかし、相手が児童なら、思いのままだ。
閉鎖的な教室で、誰にも邪魔されることなく、自らの欲望の泉を、満ち溢れさせ、それにまみれることができるのだ。
うっっっはっはああ、気持ちっイイっ〜〜〜、やめられないっすってなもんだろう。

何とも屁のような。その欲望はあまりに臭い。
みな鼻をつまんでいるやり過ごすしかないのだろうか。

その教師の叱責が苦痛で、不登校の児童が生じているという直接的な問題もある。
教師がかかげる「成長」を促すという旗印によって、「成長」覚束ない子らに対するいじめが誘発されるという間接的な問題もある。
何しろ、その世界では、成長覚束ない子を「指導」するのが善なのだ。

誰もこの教師のやり方を責任もって改めさせる者はなく、当たらず障らず放置されたままである。
子供は、いつも犠牲者だ。