どのような事情があっても不快感もたらす言葉は使わぬ方がいいだろう。
言われた相手は不意打ちにあったみたいに突如気分が沈むことになる。
形あるものであれば避けて通れても言葉になると否応なく目に飛び込み耳から入って簡単には取り除けない。
例えば理由はどうあれキモイと痛罵されれば、その下賤な言葉が内面の下賤を解き放ち身中あふれて着地すべきキモイを探し始めることになる。
たいていは相手の有するキモイ部分に焦点が当たって、そこに雪崩打って向かう。
キモイだらけの世界がそこに現出することになる。
下賤な言葉の繁殖力は尋常ではなく、下賤の応酬はどこまでもエスカレートしていく。
このようなやりとりが生活習慣になると、あとは見るも無残な廃墟だけが残るということになるのだろう。
排出された汚染物質が巡り巡って酸性雨となり、森林を枯らし土壌を損ない建造物を朽ちらせ湖沼の生命を根絶やしにする。
それと同じようなことがじわじわと進行する。
中国では、酸性雨のことを空中鬼というのだそうだがまさに言い得て妙である。
粗暴な言葉が有する毒性は酸性雨に勝るとも劣らない。
後は野となれ山となれ。
心荒んで関係は修復不能なほど毀損されることになる。
だから自らは発しないのは当然のこと、予防が肝心、カラダに入ってこないようよくよく注意を払った方がいい。
ニアミスとなった場合に備え耳栓を携行し着信を拒否しメールは迷惑フォルダに直行するよう回避のための仕組みを講じておくなど取れる手はいくらでもある。
あえて耳を傾け目を注ぐなど、阿鼻叫喚。
悶絶避けられない愚挙である。
衛生管理はまず第一に精神にこそ必要なものだと言えるだろう。