海峡を挟み向かい合っているようなもの。
いつしか地形としてそう意識するようになった。
若気の頃は陸続きだとイメージする者が多いが、それだとナイーブに過ぎるだろう。
至近距離での応酬となれば痛手は大きく、特に子育て時、どちらかが猛獣化した際には危険とさえ言え、その種の遭遇談は枚挙に暇がない。
埋めようのない乖離があると知りその距離を常に意識せねばならず、せいぜい吹けば飛ぶよな吊橋が一本架かっている程度の交流、そう心得て行き来する用心深さが不可欠と言えるだろう。
俯瞰してみれば、鋭角の先端どうしが海峡を挟んで向かい合い、双方の陸地に接する箇所などどこにもない。
二つの突端の背後には互いの親族が控えるが、文化も習慣も価値観も異なっているから相容れないのが常態。
地続きでつながるのは自らの親兄弟姉妹だけであり、突端はもとより向かい側へは吊橋を経由しなければならず、訪れるにしても言葉遣いをはじめ細心の礼節を伴ってでなければならない。
若い頃は勘違いし地続きだと思いこんで土足で向こう岸に踏み込み相手側の胸のうちの顰蹙に気づかずバカ丸出しでくつろいで振る舞い、後で振り返れば苦味ある思い出ばかりが残ることになる。
地形に思いを致せば、そもそも向こうにいるのは全員が他人であり、近接した地形の特異を思えば他人以上に他人といった存在であり、視点を移して相手側から見ればこちらは「海の向うに棲息する得体の知れない異質」でしかないと容易に理解が及ぶはずである。
つまり、何か事があれば一触即発となるような対立構造が内包されているようなものであるから、のっぴきならない。
こんなことは誰も教えてくれない。
が、地形が分からなければ歩き方も見えてこない。
だからぜひとも日記に書いておくべき話と言えるだろう。
子どもたちはこちらに重心を置きつつも双方の陸地を地続きであるかのようにいま出入りできるが、いずれ長じたとき、自身が向き合うべき誰か不可侵の地を前にすることになる。
そうなったときは余計な口を差し挟んだり求められもしないのに首を突っ込んだりしてはならず人畜無害であることを旨とし、クレバーなアウトボクサーのように適正な距離を保持しなければならない。
第一、本質的な問題解決はこちらからではどうにもならず一切合切が向こう岸によってしか成し得ない。
逆説的だがそんな他人行儀が良好な関係を保つための鉄則となる。
カジュアルでブロークンに終生付き合えるのは自身の家族とそのほかには中高を一緒に過ごした友人や大学の友人くらいしかいないのである。