タコちゃんが台座に鎮座し運ばれてから三十有余年。
ご子息もまた大阪星光体育祭恒例の大井川競争にて台座に陣取ることになった。
二人は瓜二つ。
既視のシーンが時間を超えて夕陽丘の地にて再現されたようなものであった。
その場面を写したワンショットに導かれるようにして先日、うちの二男がタコちゃんJr.に駆け寄った。
繰り返すが瓜二つ。
だから見間違うはずがない。
言葉を交わした時間は数秒。
その僅かな時間を思ってじんと来るのは、人の縁の不思議に思い至るからだろう。
例えれば、水路。
生きるほど周囲に張り巡らされる水路の数が増え、網目が緻密になっていく。
そこを通って数々の縁が流れ着く。
先週は西から、今週は東から、といった風に。
昨日は突如、巨大な船が現れた。
記憶の枠外にあってほぼ死角。
そんな小さな水路を伝っての話であったからまったく予想外の出来事だった。
たいへんな労を必要とする仕事がもたらされ身構えつつも、そうであってこそ生きていけるのであるから、不思議の念にだけとらわれ感慨ひとしおとなった。
つくづく思う。
大切なのは、何かがめぐってくる水路があること。
通じていれば、小さかろうが大きかろうが何かが届く。
だから頭は垂れて腰低き者であることが不可欠、と言えるのだろう。
逆に言えば、その流れが滞ったり途切れたりとすると干上がってしまいかねないので、頭が高いのはほどほどにせねばならず、不仲で水が淀まぬよう、あるいは争いごとで水路が塞がらぬよう日頃から心配り欠かさぬことが大事ということになる。
考えてみれば単純で、人に感謝し争わず役割をきちんとこなしていれば、小気味よく水がせせらぎ、四季穏やかに移ろうということであるから、誰にだってできるという話でもある。
タコちゃんJr.に声をかけたよ、と二男から聞いてそんなことを思い、感慨に次ぐ感慨で、わくわく楽しい気持ちになった。
今回、大井川が水路となって開通し、親子の間に巨大な流れが生まれた。
そこにまた多くの登場人物が、水しぶきあげ、きゃっきゃきゃっきゃと声あげて行き来することになる。
台座の笑顔は先代から引き続き、破顔満面ということになるだろう。

