仕事をするから肩が凝る。
昔はそう考えていた。
肩が凝ると頭が朦朧とし能率が落ちる。
だから定期的なマッサージが欠かせなかった。
しかし数年前。
ジムに通うようになってマッサージを求めるカラダの声はかき消えた。
以来、どれだけ仕事が忙しくても、肩凝りに煩わされることがなくなった。
仕事は肩凝りの原因ではない。
実体験が認識をそう正すことになった。
ここ最近、肩が凝る。
仕事が忙しいからではなく、運動が不足しているから。
いまでは原因を正確に捉えることができる。
応急処置が必要だろう。
そう意見が一致しこの日の仕事帰り、家内とともにマッサージ屋を予約した。
夕刻、わたしたち以外に客はゼロ。
雨音を聴きながら、一時間みっちり全身を揉みほぐしてもらった。
人の手による癒やしもたまに必要。
ふやけてとろけ素直にそう思った。
家内の運転で帰宅した。
せっかく疲労を抜いてもらったのだから、手抜きでいい。
わたしがそう言って、家内は肉だけ焼いた。
ワインを開けて簡素な食卓を二人で囲んだ。
ほぼ毎日、何も起こらない。
だから日記はどの行も似たり寄ったりの紋様となる。
それが積み重なって、はじめて分かる。
自分自身が一体何をしているのか。
たいてい誰もが思い違いをしているのではないだろうか。
自分がしているつもりのこととは、実は異なることを自分はしている。
過去が分厚く集積され、厳然たる事実が眼前に差し出される。
否応なく、自分が自身を取り違えていたのだと思い知ることになる。
日記を書くことで多少なり思考が深まり、何らかの知見に至る。
それは子らの役に立つかもしれない。
そのための日記。
そう思っていたが大違い。
見れば一目瞭然。
単なる熱唱。
思考や知見などとはまったく無縁。
感傷の赴くまま、家族や友人らへの愛の賛歌を好き勝手歌っているようなもの。
つまりジャイアンのリサイタルと五十歩百歩。
出物腫物ところ構わずといったように、音痴であるなど露も思わずジャイアンは朗々と歌い、歌えば心満たされるのと同じこと。
書けば気が済みまた次の日も書くということになる。
やめられないとまらない。
長きに渡る一人カラオケ。
そこで流れるのは家族の唄ばかり。
つまみ出されない限り、このワンパターンでずっと歌い続けることになるのだろう。
この歳になってジャイアンの姿が励みになるとは思いもしなかった。

