仕事納めの日は気楽。
だからすこぶる調子よく仕事がはかどった。
夕刻前には課題がすべて片付いて、皆をねぎらいひと足先に事務所を後にした。
神社で手を合わせ、肩がガチガチだったのでマッサージ屋に寄った。
施術は怪力のおばさん。
で、ここで言葉による錯覚に気付いた。
おばさんと言えば永遠の歳上、それもかなり上。
そうイメージするが、いつの間にかわたしもいい歳。
だから実年齢は、案外近いのかもしれなかった。
そんなおばさんに「若い筋肉は弾力がいい」と褒められながら揉まれ撫でられ時にめちゃくちゃ痛いが一時間を経てカラダはすっかり楽になった。
帰宅すると家内がオンラインでヨガのレッスンを受けていた。
他の生徒の家の様子も小さなコマ割りで画面に表示される。
その様子を傍から眺めながら女子の友情について考えた。
家の景色だけでなくそのバックグラウンドが微に入り細に入りすべてが異なる。
自身の属性に始まり夫や子の有無、その勤め先や学歴や嫁ぎ先までもが比較というサーチライトによって照射される。
一致点あってこその友情。
しかし女子においては比較が先で、せっかくの一致をも揺さぶって、だから結局、行き違う。
それでも関係を保とうとすれば一致を維持しなければならず、その労苦は並ではない。
先日のクリスマス。
数々の幸せぶりがインスタに投稿されていた。
貰ったブランド品についてはその真正を証すためショッパーも含めて中身が開陳される。
そんななか、型遅れのショッパーだけをアップしているものがあった。
いつもの手。
あると思わせ中身はない。
ネットを見れば、「がわ」に過ぎないショッパーも売り買いの対象になっている。
これではまるで幸せのなりすましという話である。
そこまでしなければならない力学が存在するのだとしたら穏やかではない。
うちは息子二人でほんとうによかった。
娘がいてわたしに似れば不器量だったはずで、そうであれば幸せの見せ合いっこのなか劣勢を余儀なくされた。
超然と孤高を気取るか、仲間入りするため四苦八苦するか。
いずれにせよ不憫な話に違いない。
夕飯は鶏鍋。
息子が二人という点でわたしと家内は一致する。
この夜も二人で鍋を囲んでビールを飲んでワインを空けた。