金曜夜、家で風呂をあがったところでビールが飲みたくなったのでぶらり中華の大貫を訪れた。
入口付近のカウンター席に腰掛けてキリンビールと五目そばを頼んだ。
大貫は古くからの地元の名店。
先ごろ新装開店となったばかり。
このご時世であるが結構な客の入りだった。
ビールを飲みつつ物思いにふける。
かかあ天下の家で育った女子と亭主関白の家で育った男子が結婚した場合、その所帯の秩序はどのようなものになるのだろう。
時は令和。
関白気取りなど肩身狭いばかりで、かかあ優位の時代背景は揺らがない。
新関白は端から風下。
出だしから攻め込まれ、かかあの尻に敷かれた先輩同様、その陣門に降ることになるだろう。
まもなく雨が降り始めた。
開け放った扉のそばに座っていたから、その匂いと音を間近に感じ、心が静まり安らいだ。
大貫では五目そばが一推しである。
酢をたっぷりかけ、数々の具と調和して美味い細麺を少しずつ味わい、ビールを飲んだ。
暗黙の教義というものがある。
言語化されておらずどこにも記載はないが厳然として存在している。
たとえば、客の入りの多い店で飲食するのも今後は慎むべきこととして暗黙の教義となっていくのかもしれない。
そうなれば、緊急事態を脱したとしても無防備に食事しているだけで眉をひそめられることになる。
もちろん眉をひそめられても知らぬが仏であって、通常は痛くも痒くもない。
しかし従事する職業によっては、その姿を一見されただけで唖然愕然とされ、その見識を疑われ、それだけに留まらず風評さえ生まれて営業に直にマイナスの影響が及ぶということだって起こり得る。
これなどは世相によって認知しやすい教義と言えるが、知性を欠くと察知すら難しいという教義もこの世に存在する。
いじめ問題などは詰まるところ、この教義の読解の不具合に起因するものと言えるのではないだろうか。
だから、知らぬが仏で機嫌よく生きるにせよ、誰にも迷惑をかけていないといった幼稚な認識にとどまるのではなく、教義についての最低限の警戒心は持ち合わせていた方がいい。
自身だけが浮きに浮き、実質的には村八分にされてしかしそれに気づかず調子に乗ってますます顰蹙を買えば、自身の周囲にもその害が及びかねない。
一本目のビールが空き、二本目を頼もうかどうしようか、もの思いの焦点はビールに移りつつあった。
亭主関白の家とかかあ天下の家とではそこを支配する教義が全くの別物で相容れない。
是か非か正か否かといった問題ではなく、グーとパーのようなものであり決着は揺らがず理屈を持ち出したところで見苦しい負け惜しみにしかならない。
どちらの家の女子を女房にもらうか。
息子らにはそこも着眼に値する旨、伝える必要があるだろう。
ビールは一本だけにとどめ、雨のなか、わたしは家へと戻った。
途中、二男と偶然出くわし、ともに雨に濡れて歩いて気づいた。
とっくに息子らはわたしが気づくようなことを知っている。
大人なみの洞察を経て、彼らなりの思いをもってそうなる構造自体を呑み込んでいるのだった。
やはりわたしは知らぬが仏の側の人間なのであった。