午後、武庫川に向かった。
河川敷を切れ目なくランナーが駆けている。
そんな様子が土手から見て取れた。
マラソン大会が行われているのだった。
仕方なくわたしもその一団のなかに混ざって走った。
走力によって順に並び、わたしはそれなりのランナーと前後の列を形成した。
沿道に人が立ち、拍手が鳴って声援が飛ぶ。
わたしは部外者であるが、なんだかそれに応えねばという気持ちになって、徐々にその世界に同化していった。
規則的に足を踏み出し呼吸するうち意識は次第に変性し、遠い昔の「競争」が意識のスクリーンに浮かび上がった。
沿道に立つのは教師や両親だろうか。
勝たねば、しかし、なぜ。
いったいこんな受験勉強に何の意味があるのだろう。
そんな葛藤がありありとよみがえって、思う。
当時、わたしは青すぎた。
未熟な知性は、視野が狭くて視点が低い。
俯瞰してみれば、みな進む方向は別々で、だからその場における勝ち負けが何かを決定づけることはない、とひと目で分かる。
しかし、そうとは気づかずそこで決まる優劣が重大事であると一方で思い込み、他方、何かが違うと懐疑するから、足がもつれてもどかしい。
まもなく折り返し地点が見えてきた。
日頃、わたしはもっと先まで走ってからUターンする。
だから、誰かが決めたこの折返し地点など全く関係がない。
しかし、ここでUターンしなければ、さっき抜いた者らに先を越されてしまう。
それは実に面白くない話だった。
迷った末、わたしはそこに置かれた赤いコーンでターンした。
まだまだ未熟。
いともたやすく他人基準に占拠され、他人のレースに我を忘れたも同然だった。
ただ、若気の懐疑が抜けた分、つまり肩肘張らず自らをバカだと笑える分、昔に比べいろいろ楽しく遊べるようになったとは言えるだろう。