十代から二十代にかけては劣等感の塊だった。
だから自分を嵩上げして見せようと悪あがきをしていたように思う。
似合わないのに値の張る服を着たり、これみよがしにちょっとした時計を袖からチラチラさせたり、会話においては見栄を張ってついつい口から小ウソが飛び出してしまうこともあった。
地に足のつかない、苦しい日々であったと振り返って思う。
いま様々な格闘を経て身の程を知り、落ち着くところに落ち着いた。
自分は自分。
それを嵩上げして見せようなど露とも思わない。
この開き直りに近いような、あっけらかんとした気楽さが自信と言えるのかもしれない。
自分は自分でしかなくそれでよし。
そう思えることが、心に平穏をもたらす。
だから、何か身を飾ったり、大口を叩いて得られる瞬間的な自尊心など全く不要で、誰にどう思われようが、自分は自分で揺らがないからもはやどうでもいいと思える。
わたしは遠回りしたが、そうならぬよう息子たちには言ってきた。
中身がしっかり詰まっていれば虚飾は不要で、中身が疎かになればそれを頼りにしなければならなくなる。
二人は質実剛健、文武両道を地でいって若くして泰然自若、つまらぬことで見栄を張らずとも済む男に育ったと言えるだろう。
かつて家内をあてこすった人物はいまもってインスタで、懐から小鳩を羽ばたかせる手品師よろしく虚言と偽ブランド品を並べ、ときに他人のブログ画像を自分のものでもあるかのように拝借しおまけに家族まで動員し虚像を作り上げ続けている。
本質的には相当な劣等感の持ち主で、医者が診れば病名がつくほどの話なのだろうが、ますますその悪癖を募らせていく道を突っ走っているように見え、結果おそらく子どもたちをも遠回りの道へと道連れにするようなものであるから、なんとも罪作りなことである。
更に加えて、周囲の人にはネタが割れ、セレブな虚像を描けば描くほど寒々しいほどの実像が浮き彫りになってしまっているはずで、だからそのインスタ芸にこのところは痛ましささえ感じてしまう。
何がどうであれ人の勝手ではあるものの、ある種の空虚は目にしてしまうと物悲しい。
身の丈で心安らか過ごせる人と暮らすのが幸せ。
今度会ったとき息子らにそう伝えようと思う。