木曜にもなれば疲れが溜まる。
だからエステ日和なのだとこの日の午後、家内は神戸へと出かけた。
そしてエステを終えた後、そこから長距離を移動して夕刻は京都。
そこでシミ取りの予約があって、その後は京の都を散策するという。
ジムで鍛えるだけでなく心身すみずみまでケアして健康を保って美容にも気を配る。
子育てを終え、それでも相変わらず子どもファーストな家内であるが、自らをいたわる比重も増してきた。
それで家内の笑顔が増せばそれに比例して家庭も円満になるのであるから言うことなし。
つまり、家内イコール家庭であって、犬が西向きゃ尾は東の喩えのとおり、家内が癒やされればそのぶん家庭に安息がもたらされる。
だから、どうぞどうぞと諸手を挙げて家内のリラクゼーションに賛同するのが男子として正しい振る舞いだと断言していいだろう。
一方のわたしはと言えば、京都まで来る?との誘いを断って一人で過ごすことにした。
月曜、火曜、水曜と飲まずに過ごした。
先週金曜からのジム通いも連続で6日を数えた。
家内が留守で、木曜はジムが休み。
走るにしてもまだ右足にかすか捻挫の痛みが残る。
すべての状況が今夜は自由なのだとわたしに告げていた。
だから南森町で業務を終えたとき、足は漠然と「水辺」を求めて商店街を北へと向いて、確かあのあたりにあったはずだと焼肉屋のことがふと頭に浮かんで、その像とリアルが天満駅近くでクロスして、わたしはそれが定めであったかのように店へと吸い込まれていった。
飲まないことで得られる明瞭な意識もいいが、飲んでなんだかすべてが微笑ましいといった得体のしれない心地よさもこれまたいい。
肉を焼き、静か味わいビールを喉に流し込む。
まだ外は明るい。
焼いて食べて飲み、場末の焼肉屋の一角で膨らむのは腹ではなくて笑みだった。
いくらでも食べることができるが、しかし飲む量には限界があった。
瓶ビールと生ビールをちゃんぽんし、したたか酔いが回ったところで勘定にしてもらった。
もはや水辺に用はなく、ぶらり歩いて駅へと向かった。
寄る年波。
次に気づいたとき、わたしは寝床にあった。
ちゃんと家に帰りつき、風呂にも入ってきちんと寝支度もしていたのであったが、まるで記憶がない。
ベッド脇のサイドテーブルには飲みさしの缶ビールが置いてあった。
わたしが飲もうとしたものであることは疑いようもないが、しかし心当たりがない。
真夜中、缶ビールの中身を洗面台に流しつつ、ひしと感じた。
おそるべきはお酒。
飲まれていたのは他でもない、わたしだったのである。