攻めの元気と守りの元気

鶴橋での業務を終え、その足で実家に立ち寄った。

 

先日まで暑さに辟易していたのが嘘だったみたいに、一気に冷え込んだ。

案の定、父はしっかりと厚着をしていた。

「寒暖差でしんどいわ」

 

そう言いながらも、どう見ても父は元気そうだった。

 

そう伝えると、父は笑った。

「元気そうに見えるほど危ないんや」

 

父の姿に自分を重ね合わせずにはいられない。

27年後の自分の姿をわたしは眼前にしているのかもしれなかった。

 

こたつの角をはさんで座り、この対比で否応なく自覚した。

いまわたしは、めちゃくちゃ元気である。

 

脳も内臓も筋肉もすべてが充溢し、父の言葉を借りるなら、「めちゃめちゃ危ない」くらいに元気と言えた。

 

もちろん、父のそれとは危なさの質が異なる。

父はカラダを労わり、維持することに注意を払っている。

 

父の元気が「守り」のフェーズにあるとしたら、わたしの元気は「攻め」のフェーズにある。

 

毎回、父と会えば気づきが得られる。

小一時間ほど雑談し、わたしは次の訪問先である高槻に向かった。

 

危ないほどの元気さを、さあ、わたしは何に投じるべきなのだろう。

この充溢は有限で、そのうちわたしも「守り」の側へと招き入れられる。

移動中、そんなことをぼんやりと考えた。

 

夕刻、家に戻った。

木曜日はジムが休みで、家内にとってはヨガの後にエステを受けるハッピーデーだった。

 

饒舌に料理づくりに勤しむ家内をみてすぐに気付いた。

 

家内の元気さは、わたしなど遥かに上回って次元を異にしている。

家内のそれは、元気というより輝きと呼ぶべきものだった。

 

この元気や輝きを「長さ」に置き換えるなら、わたしが先に尽き、家内が後々まで続くという構図が判然と見通せた。

 

父の言葉が思いがけず、わたしたちの現在地点を強く照らし出したのだった。 

 

この「攻め」の有限を、何に使うか。 

充実させねば、勿体ない。

2025年10月23日朝昼晩 牛丼や親子丼