1
夕刻、家内はプールへ向かい、私はもう一踏ん張り、仕事の溜めを作るため西九条の大福湯に向かう。
先日の日曜、久しぶりに上方温泉一休を訪れたが、やはり週末は鬼門とせねばならない。
混みようが尋常ではなかった。
群衆が入り乱れごった返す。
あたかも大阪駅のまっただなかで入浴しているような気持ちとなる。
混雑にこづかれ、右往左往間隙を縫うようにして湯にありついて手ですくう。
最後にはなんとも惨めな気分になっただけであった。
何が悲しくてこんな混みいった場所で身を小さくする必要があるのだろう。
平素は大福湯を選ぶのが無難だ。
サウナはたいてい私一人だけ。
時折はまだ明るいうちから湯に浸かりまるで隠居のじいさんみたいだが、私にとっては明け方からつづく仕事のハーフタイムみたいなもの。
欠かすことができない。
2
帰宅し家内の手料理を肴にし晩酌を始める。
家内はキッチンに棲んでいるとも言えるほどそこで長時間過ごし料理を作り続ける。
キッチンカウンターでガツガツ飯をかっ食らう長男の背中がテーブルに腰掛ける私の眼前に迫る。
咀嚼し嚥下する度に背中の筋肉が波打つように隆起する。
がっしりした背中の奥底秘められた数々の生命が脈動しているかのようだ。
アフリカ大陸、というイメージが浮かぶ。
アフリカ大陸みたいな背中というしかない。
広大な、そして未開の大地を俯瞰するようにしげしげ眺める。
お酒がすすむ。
3
中学に入ってからますます元気旺盛な長男である。
学校の企図によって子が活性化され、そのエネルギー準位が引き上げられていく。
基底状態から励起状態へと、休むことなく次に次へと遷移していく様子に親は目を見張って顔ほころばせる。
親心として子らの十代においては、こんな経験をさせてあげたい、あんな取り組みをさせてやりたい、と考え浮かぶ全てのことを学校が企画し実現してくれていると言える。
そこらそんじょそこらの教師一般が思いつき具現化できるような企画ではない。
国内だけでなく海外機関など第三者を取り込んでのスケールであるし、実現には交渉や調整や行政手続などが介在したいへんな労力が必要だろうが、それを絵に描いた餅で終わらせないところは、これはもう一流のビジネスマンの次元の仕事と言えるだろう。
単に勉強させる、ということですらお留守になりがちなほど教職はしんどい仕事であると思うが、そこについても手抜かりなく手当し、さらに高次の何かを啓発するための試みを絶やさない。
これぞ教育のあるべき姿と言う他ないであろう。
ここで過ごせば、近頃はやりの淡い人間づきあいでは済まない、濃い仲間意識、強い連帯感のようなものが友人間だけでなく師弟間においても形作られることだろう。
そのような強固で頼もしい人間関係のもと、一生の宝ともなる数々の有用で光り輝く経験や体験を積むことになる。
いやはや素晴らしい。
4
その夜、「コーラス」を見る。
フランス映画だ。
登場人物二人が、一人の教師のことを回顧する。
二人は池の底と呼ばれる施設で同じクラスであった。
その施設では様々な事情により親元離れざるを得ない子どもたちが寄宿する。
そこに教師マチューが赴任してきた。
風采ぱっとせず、弁舌もたくみな訳でもなく、何の変哲もないような教師であるが、マチューが施設のささくれた空気を変えていくことになる。
マチューは落ちぶれた音楽家であった。
しかし音楽を愛し、いまも楽譜を肌身から離さない。
マチューは子どもたちに合唱を教えることを思いつく。
一人一人の個性を見出し、パートを与え練習に取り組ませていく。
子の胸に響くような啓発的な言葉を発することもないし、子らの士気を高めるための仕掛けをほどこすこともなく、マチューはただただ地味地道に音楽を通じ子らと向かい合っていく。
合唱団のなか、各自がパートを持ち、立場を尊重され、教師が向かい合ってくれる。
おそらくはそのことによって子らは心のささくれを癒やされていったのであろう。
ドラマでありがちな過剰な熱弁や演出、子らの変化を決定づけるような派手で白々しいエピソードなどが挿入されるわけではない。
だからこそ、この映画が伝えようとする本質が最後に心に残る。
映画の主人公が過去を回顧するのと同じように、見るものは自らの過去に目をやることになる。
目を凝らせば、遠く霞んだ過去の世界のモヤがしだいに晴れていき、そしてそこに現れるのは、何の変哲もないような平凡な人物達である。
私たちに向かい合ってくれ、良くしてくれた人物があったことを、映画によって思い出すことになる。
子ども時分にはファンタジスタなど不要である。
マジックなど何もいらない。
子どものときにきちんと向き合ってくれる、そのような働きかけこそが人としての糧となる。