1
学校前でその帰りを待つ。
ここらに寄ると子らが通った塾のことを思い出す。
長男を迎え二男を迎えした歳月が懐かしい。
ミラー越し、信号を渡る二男の姿が見える。
真向かいにある女子校の生徒とすれ違いざま何か声を掛け合っている。
塾で同じクラスだった子なのだろう。
今は互いが制服姿。
見渡せば皆が皆、受験の荒波をくぐり抜けた仲。
息詰まるような呻吟の日々は遥か彼方へと過ぎ去った。
一帯にノーサイドの風が吹き渡る。
2
二男を助手席に乗せ、いざ自宅へ。
流す曲は昭和の懐メロ。
男横並び、黙って曲に耳を傾ける。
寡黙に時間が過ぎていく。
二男がポツリと言った。
こういう曲は今の時代、人気出ないんだろうね。
なぜなのだろう、今はちゃんとした日本語の歌はウケないようだ。
日本語にメロディが伴うと照れくさいようなこそばゆいような感覚になる人が多いからかもしれない。
素面では聞くに堪えない。
ハッピー、ラブ、キッスでピースといった語をリキュールのようにまぶしてはじめて耳に入っていくというようなものなのだろう。
でもなかには昔ながらの曲が好きでこっそり堪能する人も少なくないはずだ。
そう言うと二男は頷いた。
3
帰宅すると家内が開口一番、地元鳴尾の病院での診察が不快であったと吐露する。
今朝、腹痛訴える二男を連れそこを訪れたのだという。
近隣ではまま大きい病院であり、よくしてくれる先生も数多く状況判断に迷う際は取り急ぎそこに駆け込むことが多い。
しかしこの日は当たりが悪かった。
診察の番が回ってきて家内は小児科の医師に症状と経過を説明し始めた。
手短に要点だけを告げたつもりであったが、「だからっ」と医師は苛立った様子を隠さず家内の話を遮った。
「だからっ、いまからレントゲン撮るんですよ」
虫の居所が悪かったのか、家内が目障りでしょうがなかったのか。
医師の口調はきつくなじるようなトーンであり、いかにもこちらを見下したような、小馬鹿にしたような響きであった。
その場にいた二男も唖然とした。
そんな行儀の悪い言葉を遣う医者がいるなど仰天でしかなかった。
私がいたら喧嘩になったに違いない、そう思ったという。
看護師は注視していたが、慣れっこの様子であった。
家内は気圧され怯んだが、何でもなかったかのように笑顔で振る舞った。
しかし動搖は隠しようもなく、ぎこちなくなってしまう不自由な時間を耐えねばならなかった。
4
何とか持ちこたえて診察を終え、会計を待つ。
病院の待合で事務員がお年寄りに何か説明している。
お年寄りは話がなかなか呑み込めないようであった。
事務員が老人に向け放った言葉で、家内のなか燻ぶる不快がいや増しとなった。
「ですからっ」。
苛立ち露わとする刺々しい響きであった。
「だからっ」に「ですからっ」。
業を煮やした上から目線が、不出来・出来損ないを露骨に蔑む。
病院という場においては強者と弱者が鮮明となる。
かたや、県のお墨付きを得た医療法人であり来院者に事欠かない大病院、そこで診察する医師は社会の勝者であって雲上人とも言えるスパーエリート。
かたや、しがない額の保険税で家計逼迫、診察にあたってはせいぜい三割負担するだけのちっぽけな存在。
こちとらたいした学はなく稼ぎは雀の涙、アホで愚かで世の底辺を這う最下層。
ええい頭が高い。
下々はつべこべ言うな、黙ってろ、というようなものなのであろう。
5
このところは格差社会の不可逆性について、「カフカの階段」といった比喩がよく用いられる。
そもそもカフカが書いた趣旨とは別様の解釈ではあるが、その階段のイメージを用いると貧困者の陥る閉塞状況がとてもよく理解できる。
階段を一段後退することは大したことではないように思える。
一段、二段、三段、四段、五段と徐々に後退していく。
これでもたったの五段だ。
水前寺清子は三歩進んで二歩下がると高らか歌った。
五段程度、また登っていけばいい。
しかし、どうやらもと来た道は不可逆。
登るステップは一段ずつだが、下ってしまうと、五段の段差が一つにまとまり壁と化す。
眼前には5つの段差があるのではなく、5つ分をまとめた高さの壁が立ちはだかることになる。
もはやこうなると普通の歩幅では戻っていけない。
そして、ますます後退し、這い上がれなくなっていく。
老いて一段後退すれば、その流れに捉えられていく。
下流老人という呼称は非道いが、悲惨な末路については呼称及ばぬ絶句の世界となる。
そして、後に続く世代を巻き込みこの不可逆が強化されていく。
後退した者らの前に次々と壁が立ち塞がっていき、格差が強化拡大されていく。
夢見られた21世紀。
蓋を開けてみれば、苦難に陥っても人が人を助けない阿鼻叫喚の世となりつつある。
6
そして、そこかしこ、人があちこちで蹴落とされていく。
蹴落とす作用の要素要素は時に微弱で目に見えない。
それは例えば、「だからっ」や「ですからっ」という言葉として顕現する。
我々においては、蹴落とされないよう倦まず弛まず這い上がり続けることは言うまでもないことであるが、何があろうと誰かを足蹴にするような態度や言葉遣いはせぬよう、肝に銘じておかなければならないだろう。