枝豆がどっさり箱詰で送られてきた。
産地が八尾とある。
大阪の八尾が枝豆の名産地だとは知らなかった。
枝豆好きであるから家内はこの届け物を大いに喜ぶことだろう。
段ボールの箱を抱え帰途につく。
家での晩酌に備え、途中で風呂を済ませた。
がしかし、早く枝豆を見せて喜ばせたい、急いで帰ろうとの気持ちがあったからだろう、不覚にも足を滑らせ風呂の縁に右膝をしたたかぶつけてしまった。
たいしたことはない。
そう思うが痛く、路上で痛みは更に強くなり、歩くことはできるが段差がつらい、という状態に陥った。
目を凝らさねば分からぬような段差であっても膝に力が入らないので苦痛に感じる。
階段など行く手を塞ぐ城壁のようなもの。
だから駅のホームへはエレベータを使ったが、この利便で救われる人がどれほど多いか骨身に沁みて実感することになった。
家では家内が夕飯の支度を着々と進めていた。
右膝のことは言わず、枝豆だけを俎上に載せた。
案の定、家内は喜び、そしてその性格、喜びを独り占めすることなく枝豆を小分けにし、さっそく両隣へとお裾分けを渡しに駆けていった。
子らの年齢が近くかれこれ付き合って何年になるだろう。
そこらの身内よりはるかに身内といった風にわたしには思える。
向こう三軒両隣の子の全員が全員、健やか元気に育っているのは、こうした些細な助け合いが暮らしのベースにあってそれが子らに良き作用をもたらしているという一面もあるからに違いない。
家でも早速茹でられ、制作途上にあった料理たちは後回しになり、この夜のつまみの玉座は枝豆が占めることになった。
ハイボールを飲みつつ枝豆を分け合って、互い近況を交換する。
仕事から解放されて家内との雑談。
これが実に楽しい。
先日の週末土曜、家内は西大和ママらと過ごしたようである。
子の友人と母の友人は重なる部分もあるが、必ずしも同じと言うわけではなく、その差異が面白い。
つまり、母は母で気の合う良き友人を得た、ということであり、その縁が子の卒業後も続いて折りに触れ顔を合わせるというのが実に心強くて微笑ましい。
明けて日曜は、星光ママらと連れ立ってクルマで高師浜運動広場まで合同練習の見学に出かけたという。
部活を通じ息子は無二の親友を複数得たが、母も同様。
この縁も末永いものであろうと確信できる。
わたしは長男からかかってきた電話について話す。
毎日ラグビーの練習しているからお腹が空いて仕方がない。
そんな他愛のない話に家内は食いついた。
早速当然枝豆が送られることに決まったが、しかしそれでラグビーする青年の腹が膨れるわけがない。
結局会話は息子に送る食料のことだけに収斂していった。
子の活動を支えるのが食。
その信念で一貫している家内であるから、そうなるのは当然だった。
この週末は、どこか出かけて例のごとく食材調達に充てられるのだろう。
他にすることのない夫婦である。
従者として食材調達の手伝いにベストを尽くすのが良き週末を過ごす秘訣ということになる。