時刻は正午で場所は天王寺。
先日、二男が仲間を連れて訪れたパゴダ白雲が頭をよぎった。
せっかくなので母を誘ってそこで昼を食べることにした。
わたしは電車、母は自転車で移動し待ち合わせ、30分後にはテーブルで向かい合った。
わたしは冷麺セット、母は焼肉セットを注文したが、そもそもの最初から母は焼肉をわたしに分ける算段だった。
二男が友だちとここで食事する写真などを見せているうち当たり前のことに思い至った。
目の前に座る人がわたしの母であり、この母がわたしを育ててくれた。
振り返れば数々のシーンが目に浮かぶ。
一番印象深いのは阪神受験研究会に入った初日の思い出。
暴力が支配する地元の中学が嫌で私立へ行こうとわたしは突如思い立った。
それで母に頼んで入塾テストとなる公開模試を受けたが忘れもしない。
700人ほどの受験者のなかわたしの順位は710番だった。
地元の小学校でおれが一番、そんな自負は脆くも打ち砕かれた。
最底辺であるから塾生活は気後れから始まった。
最初の授業は小6の春期講習。
月謝が何万円もするので驚いたがそれは序の口、授業で出された算数の課題がまったく分からずわたしは更に大いに驚くことになった。
忘れもしない。
そのとき横に座っていたのが新町くん。
そんなのも分からないの?
後に33期で同期となる新町くんにわたしは笑われていると思った。
いたたまれないような思いで意気消沈する昼休み。
あろうことか教室の廊下に母の姿があった。
手に弁当を携えている。
目立たぬよう縮こまっていたわたしにとって迷惑で恥ずかしいことだった。
そのときわたしは母をあしらうような態度をとるべきではなかった。
息子が電車で通うような塾に行き、その初日、母は弁当をこしらえ様子を見にきた。
母は母として当たり前のことをしたまでで、それにケチをつけるなど息子として不届きにもほどがあるというものだろう。
もちろん当時の困惑の思い出は時を経て変質し、いまや胸満ちるようにしみじみと思い出す大切な一場面となった。
その後なんとか塾に適応することができ成績も伸びた。
そこにはやはり母のサポートがあった。
仕立直しなど裁縫仕事をしつつその合間に弁当を作ってくれ、腹が減ったといえば夜食の用意もしてくれた。
わたしはそれを当たり前だと思っていたので、自らが親とならなければ、あやうく母に感謝する機会を逃していたかもしれない。
星光の合格発表のときもついてきてくれた。
忘れもしない受験番号570。
その番号をわたしは母と一緒に見つけたのだった。
よくよく目を凝らせば、思い出のなか母の姿があちこちにある。
そんなことを思いつつ、母が焼いて寄越す焼肉を噛み締めた。
で、母と別れての帰途、ふと思う。
母にも当たり外れがあるのだろう。
中学受験まであと一ヶ月。
思い出のなかどんな母の姿が残るのかは人によってそれぞれ。
当たるも母親外れるも母親ということなのだろう。