自分は出来損ないなのかもしれない。
理由は定かではないが、そんな疑念が昔からつきまとっていた。
それが薄れたのは、自我もほどよく枯れたつい最近のことである。
つまり出来不出来などどうでもよくなり、悪念が薄まった。
悪念が薄まると、どう考えても仕事で気に入られているとしか思えなかったり、喜ばれたりすることに気がつくことになる。
それが重なり、出来過ぎとまではいかずとも出来損ないではないだろうと、ますます悪念は褪色していった。
で、そんな心の動きを自らたどり直して痛感する。
出来損ないとの自認など百害あって一利なし。
そんな念と無縁であれば自身に泥を塗るような変態行為に堕することはないのだから、もし一欠片でもその気があるなら、早くに払拭させるに越したことはない。
だから余計なお世話だと知りつつも、万一にも悪念にかられぬよう親としてわたしは子らに言う。
君たちはいやはや実に素晴らしい。
カラダが強くガッツがあって、前を歩けば後をついてくる者があり、顔もいい感じの三枚目でちょうどいい。
自信が可動域を大きく広げる。
自信さえあればどこへなり向かっていけるし、渡っていける。
歳をとってからでは知れている。
若いうちからそうである方が、はるかに自由度大きく人生を謳歌できるに違いない。
だから親は誰だって、声を大にしその存在自体に祝福の言葉を送るのだ。
それで子らが幸せになるのだとしたら、かっぱえびせんと同じこと。
やめられない、とまらない。
やめられる訳がないのである。