テレビは要らない。
当初から長男がそう言っていたから、テレビを送ったのは上京して数ヶ月も経った8月のことだった。
二男も同様。
テレビは不要と言って欲しがらない。
しかし、このご時世。
何かあったとき、社会の窓として必要になることもあるだろう。
で、長男にテレビについて意見を求めた。
返信はワンワード。
テレビは不要。
何なら自分のテレビを弟にあげる。
そう言う長男に対し一応持っておけとわたしは伝えた。
結局、「いざというときの備え」として二男にも兄と同じテレビを注文した。
一昔前ならテレビなしの暮らしなど考えられなかった。
いまはネットがあってNetflixやYouTubeを通じ常に好みのコンテンツに接することができる。
だいたい当の親自体もテレビを見ない。
CMがやかましく、ほとんどの番組が粗悪に思えてつまらない。
せいぜいたまにニュースを眺める程度に過ぎない。
ついでに言えばもはや新聞も読まなくなった。
先日、積み上がるばかりの古紙を捨てようと調べて驚いた。
西宮市の古紙回収は月一回のみ。
昔は二週に一回はあったはずである。
それだけ新聞離れが加速しているということなのだろう。
家内からすれば不要というより邪魔という域と言えた。
それで新聞購読の契約がいつまでなのか配達屋に電話で聞いてみた。
来年5月まで契約が残っております。
申し訳ありません、とのこと。
いまや新聞を取っていることは謝罪されるくらいの話なのだった。
テレビと新聞が無用の長物となる。
いつかそんな時代がやってくる。
そう想像くらいはしていたが、こんなに早く現実のものになるとは思わなかった。
子らの子の時代、その存在自体、過去の遺物といった位置付けになるのかもしれない。
そして、もしかしたらNetflixやYouTubeだって同様。
大小問わず世に命脈尽きないものはない。
やがて思考は巡り巡って自らに向いてピタリと止まった。
明日は我が身。
要らん不要だ迷惑だ。
為されるがまま足蹴にされる戦慄の図が頭に浮かんだ。