クルマに母を乗せ病院に連れて行ったのは土曜日の朝のことだった。
わたしが運転し母が助手席、下の妹が後ろに控えた。
東京から上の妹が駆けつけ、新大阪からタクシーで病院までやってきた。
点滴を受け終え、母の症状は落ち着きを見せた。
上の妹がいることに気づくと、何事かといった様子で母は驚いた顔をした。
いつもの明るい母の表情がそこに見えたので、わたしたちは安堵した。
これで快方に向かうはずだった。
帰途、落ち着いたとはいえ依然ぐったりとしている母の手を握った。
母の手を握ったのははじめてのことだった。
母が目を上げ、目が合って「大丈夫、大丈夫」とわたしは声を掛けた。
実家で母を寝かせ、下の妹が横に座って母を見守った。
上の妹は東京に帰り、わたしは仕事に向かった。
夜、妹から電話があった。
容態がよくならない。
救急車を呼ぶ、とのことだった。
わたしはそのときお酒を飲んでいた。
だから実家まで電車で向かった。
そのときのもどかしい思いはいまも忘れられない。
一時間ほど実家で待機して後、受入先の病院が決まった。
大きな病院であったから、家族みなでほっと胸をなでおろした。
これで大丈夫、わたしたちはぐったりとする母に声をかけた。
朦朧としつつも手荷物をまとめる母の様子に日常の姿があったので、まさかこれが母の姿を実家で見る最後になるなど思いもしなかった。
道路で待機していた救急車までわたしたちは付き添った。
救急隊員によって運び込まれるとき、搬送用ベッドに横たわる母と目が合った。
「大丈夫、大丈夫」とわたしたちは声を揃えた。
終電でわたしは帰途についた。
JRはもう動いておらず大阪駅から向こうへは阪神電車を使った。
駅を降り、家に向かっているとき電話が鳴った。
病院からだった。
厳しい状態にある。
そう知らされた。
慈悲もない現実が突如眼前に立ち現れたようなものであった。
いまもそのとき目に映った街路の光景が脳裏に焼き付いている。
ただただ沈痛、胸が苦しくなった。
トンネルの入り口のように見える夜道を凝視し、懇願するような気持ちでわたしは歩を進めたが、気持ちは虚脱の底へと沈んでいった。
母の温かな手の感触がよみがえりその日目にした母の姿が次から次へと頭に浮かんで涙があふれた。
絶対によくなってまた会うことができる。
わたしはそう信じたが、この日が母の手を握った最初で最後の日となった。