食いしん坊である。
時に卑しいくらい。
そういった自覚がある。
が、だからといって食べ物のために途中下車などしたりはしない。
そこまでの執着はない。
ただし、例外がある。
冷麺だけはわたしを引き寄せてやまない。
ここ最近は特に。
セイレーンの歌声に惑わされる船乗りのごとく、通りかかると為す術がない。
帰阪した翌日、玉造に用事があった。
隣の駅が鶴橋でそこにはアジヨシ。
玉造に着いた途端、頭にはすでに歌声が響き渡っていた。
逆らいようがない。
その二日後。
仕事で明石に赴いた。
途中に長田。
そこには平壌冷麺がある。
仕事を終えて、足はひとりでに歌声の方へと導かれた。
これまで散々おいしいものを食べてきた。
だから、もう十分といった思いがあって、いまこれが食べたい、あれが食べたいといった渇望はない。
いまに限らず、もし臨終に際し最後の晩餐の機会があるとして、その食卓に必須と熱望するような品も浮かばない。
そのように時間を行き来しても浮かばないのに、そばを通りかかると、その像が結ばれ容易く引き寄せられる。
食する麺は手打ちだが、冷麺の誘惑については手の打ちようがないということである。
冷麺の絶対性についてはもはや問答の余地はない。
だから、「ではどこの冷麺が一番か」といった問いだけが最後に残る。
これはもう家内とさんざ話し合い、すでに確固とした結論が出ている。
アジヨシとの答えが互い揺らぐことはない。
焼肉ソウル、明月館、宝園、松井、平壌冷麺など美味しい冷麺を出す店は数多あるが、アジヨシが一番。
いつかこの日の記載が息子たちの目に留まる。
だからわたしが不在となっても、きっと彼らが食べ継いでくれることだろう。
目に浮かべるだけで美味しい。
そのときはもう途中下車する必要もないから楽ちんで、つまりそれも立派な親孝行であるのだと伝えておきたい。