日記と日常は異なる。
たとえば疲労について日記で詳述することはあっても、日常、疲労について吐露するようなことはない。
家内に言えば心配させるだけだし、事務所で発すれば職場に不安の影を招き入れるだけとなる。
まして客先でそんなことを口にすれば業務への信頼を揺るがしかねない。
弱音の類は何ら益をもたらさない。
それどころか、自らを低きへと導き、周囲をも巻き込んでしまう。
言い訳も同様だろう。
若い頃は未熟であった。
その種の話が、相手にどう受け止められるのか。
自身にどんな作用をもたらすのか。
深く考えることがなかった。
日記を書くようになって、発する言葉の適・不適について多少なり客観視できるようになったからだろう。
いまではよく分かる。
ネガティブな言葉が自分自身に弁解の余地を与え、低いレベルを正当化しそこに留まることを許容して、始末の悪いことにそれで解決した気にもなるから、状況は好転することなくますます尻すぼみになっていく。
前を向く姿勢だけが現実という文脈に整合し、もたらされる結果だけが語るに足りる。
つまりここに饒舌が首を突っ込む余地はない。
多くの人がそう弁えて、漏れ出そうになる言葉を封じ日夜寡黙に奮闘している。
それが大人の常識なのだった。
自身の若気の未熟さは棚に上げ、だから息子たちには子どもの頃からよく言ってきた。
それを口にして、何がどうなるのか。
低い意識が丸出しになるだけで、誰の足しにもならず自らの値打ちを下げるだけのことである。
つべこべ言っても始まらない。
涼しげ言葉少なに日常を過ごし、募る余談は日記にでも取っておく。
睡眠によって情報が適切に整理されるのと同様、日記を通じて無用な言葉が濾過される。
つまりこの余白は答案を書くための計算用紙みたいなものと言えるだろう。
そろそろ息子たちにも勧めたい。