涙が浮かんで目が覚めた。
わたしはベッドの上だった。
隣で家内がスヤスヤと眠り、いま銀座のホテルにいるのだと気がついた。
たったいま眼前にしていた団欒の光景は夢だった。
そこでは母が元気で、だからそれが夢だと分かった途端に涙が溢れた。
夢を見ればそこに親しい人がすべて登場する。
母も祖父母もかつての面影のままそこにいて、わたしは至って幸福で、夢ごとに年格好が変幻自在の弟や妹と一緒に過ごし、33期の友人らともしょっちゅう遊ぶ。
夢は最上の居場所の一つと言え、だから以前は夢から醒めても余韻を味わい涙することはなかった。
しかし、母が亡くなって以降は寂しさが胸を締めつけ、これはもう涙なしでは済まされない。
あなたの夢は何ですか。
そう問われれば、家族や友人との団欒とわたしは答えることになるだろう。
実際にそのとおりなのだからわたしの答えはそう決まっていて、それがわたしという人間のすべてを物語っているのだと思える。
いつの日か、遠い先のこと。
「いま、ここ」を去る際、もしかしたら時間感覚が変性し、わたしは長い長い夢をみることになるのかもしれない。
そして、そこは究極の馴染みの場所で、そこで最期の時を過ごすのだから間違いなくわたしは安らかであるだろう。
「いま、ここ」が夢へと繋がり、「いま、ここ」が夢のなかで凝縮される。
と思えば、「いま、ここ」は夢を最上のものとするための編集の過程と言えるのではないだろうか。
ウェットな蟹座の中年男子は多くの人を愛し、そして、愛にあふれたその世界にて最期の時を迎える。
ひとりであってひとりではない。
もしほんとうにそうなるならばなかなか夢のある話だと思える。