流れる曲がペット・ショップ・ボーイズのオールウェイズ・オン・マイ・マインドになったとき、着信があった。
電話を受けると、怒声が響き渡っていた。
電話の主はわたしと話すためではなく、その様子を聞かせるためわたしに向け発信したのだった。
わたしは堺市駅を出て天王寺駅で降りるところだった。
電話の向こうの怒声をBGMにし、環状線に乗り換え外回りで大阪駅に向かった。
主音声が常に主導権を握って怒鳴り、合いの手を入れるかのように副音声もまた声を荒げる。
その二人がかりの相乗効果で、発せられる言葉は問答無用で激烈さを増していった。
昔、昔のこと。
大阪の下町で暮らしていたとき、そんな怒声をよく耳にした。
だからわたしには耐性があるし、なんならその怒声の向こうも張れるだろうが、できればそんな声とは無縁でいたい。
なぜなら、そこにあるのはヒト以前の反応の暴発以外の何ものでもなく、ヒトがヒト以外になるのを目にすることほど気の沈むことはないからである。
電話の主に向かって放たれる破壊的な言葉を耳にし、その根底にたぎる憎悪の度がとてもよく理解できた。
また、赤の他人ではないからこそ遠慮会釈もなく言葉の刺々しさがエスカレートするのだということも分かった。
誤解曲解に基づく憎悪がまずあって、無実の断片がその憎悪の色に染められかき集められて、憎悪が野放図に膨れ上がっていく。
思考は痙攣したまま機能停止し、手当たり次第、そこら中のものが筋の通らない難癖として投げつけられるのであるから、災難と言うのでは生易しすぎる事態と言えた。
以前会ったとき、温厚そうに見えた。
奥底でうねる感情の起伏などそう簡単には窺い知れないということなのだろう。
取り付く島なく、為す術なし。
電話の主はそう適切に判断し、その場を辞しそこで電話が切れた。
それら怒声について以前から話は聞いてはいたが、実際に耳にしたのはこれがはじめてのことだった。
誤解曲解の類は解こうとすればするほど反作用がその強さを増していく。
後は時の流れに任せて、なるようになると思うしかないのだろう。
ちょうど電車が大阪駅に着いて、わたしは神戸線に乗り換えた。
まもなく地元の駅に着いたが、憎悪の流れ弾を浴びたまま家に帰ることは躊躇われた。
それでわたしは神社へと足を向けた。
手を合わせ頭を下げ、沈む気分をリセットしてから帰宅した。