秋の気配も消し飛んだ灼熱の日曜日、昼を前に電車で神戸に向かった。
元町で降り、まずは腹ごしらえしようとなった。
先日訪れた満園を再訪した。
カンカン照りのなか歩いて、だから昼から飲むビールが実に美味しい。
朝一でジムにてワークアウトも済ませてあったから、なおさら。
夫婦ふたりでじゃんじゃか飲んだ。
中華の油を中和するにはコーヒーが欠かせない。
食後、ブルーボトルコーヒーで一休みし、予約の時間になって神戸大丸に向かった。
ブランド品の店の雰囲気に馴染めない。
だから家内が用事を済ませる間、わたしは外をぶらついた。
やはりいい。
街を歩いてそう思った。
神戸は他と一線を画すような独特の世界を成していて、山と海に挟まれるから青空によく映え、ちょっと気取った感じが実に格好がよくて様になる。
用事を済ませた家内と大丸の地下で合流し定番の店を回った後、このほど改装された神戸阪急へと足を向けた。
街を行きながら今朝ジムで見かけた青年の話になった。
雰囲気が二男に似ていて、家内は彼にばかり目を注ぎ、事あるごとに似ている似ていると関心を寄せ続けた。
息子が恋しいと思う母の心がそこによく表れていると思う一方、男親から見れば、二男とは較べようもなかった。
肩、胸、背中、下肢、どれをとっても目の前の青年はひとまわり以上細く、「ごつさ」という点で似ても似つかない存在としか言えず、その他あらゆるものが異なった。
同じ地域に似たような草木が生えるのと同様、一見、息子らと似たような存在はそこらにあるだろう。
しかし、同時に分かる。
何かが違う。
幹が違う、茎が違う、根も葉も違う。
数え上げれば、あああ、イミテーション・ゴールドと三番まで歌うことになる。
生命というものが誕生し、気も遠くなるような時が経過した。
様々な形態を取りながら命が命を伝う遥かな流れの涯て、隣り合った雫みたいに存在するわたしたちであるから、異なるより先、どれもこれもが似たり寄ったりであるというのが本当のところだろう。
が、神戸の街を歩き、大勢の青年で溢れ返るなか夫婦揃って目を皿のようにし息子らと似た青年を探すが見当たらない。
もしここに息子らがいれば、群衆の中に紛れていても一瞬で判別がつくであろうから、どうやらわたしたちは表面的な見目形とは異なる次元でその唯一無二に感応していると言えるのだろう。
そしてよく考えれば間を置かず彼らに会える。
いくら暇を持て余しているからと言って見当違いの場で息子らの面影を探す必要などまったくないのだった。