夕刻、家内に誘われ大阪ステーションシティにあるジムへと向かった。
朝方のまだ涼しい時間帯に武庫川を走り、午後、西宮北口のジムで泳いで筋トレしたばかりだったから、ジムへの誘いにほんの少しばかり抵抗を感じた。
が、家内の赴くところに着いていくのがわたしの習性で、またそれで損したことはないから結局は付き従った。
JR神戸線は混み合っていた。
淀川花火大会が4年ぶりに行われるとあって、始まる数時間も前であったが多くの人が淀川へと詰めかけていた。
大阪駅真上のジムは真新しく、空いていて快適だった。
風呂も広々としていてサウナも充実し、それだけでも通う価値があると感じられた。
そして何より眺めがよかった。
花火が始まるのを待つ群衆を眼下にみながら、わたしたちはジムの窓から淀川方面を凝視した。
花火だからといって特に何かを思うところはなかったが、7時30分ちょうど、ドーンと一発打ち上がって、それで一気に引き込まれた。
なぜこんなに魅了されるのだろう。
そんなことを考えつつ夜空を鮮やか彩る大輪を呆けたように眺め、これが生命の現象そのものに見えるからではないかと感じた。
老若男女みなが天を仰いで、地上から打ち上がり、夜空を照らしそして消えていく花火の軌跡をじっと目で追っていた。
ミクロの世界で繰り広げられるような命の営みが視覚化されて大パノラマで繰り広げられ、つまり、わたしたちは夜空に映る命のほとばしりに見入っているのかもしれなかった。
最終の8時半まで見続けてしまえば、大混雑に巻き込まれ帰宅難民になりかねない。
だから8時にはジムを出て、駅へと向かった。
それでもホームはすでに人で溢れ、電車は超満員となった。
そんなすし詰めのJR神戸線の電車が淀川を渡るとき、立て続けに花火が打ち上がった。
混み合う車内であったが、乗客のすべてが一方向に目をやって、座っていた人たちは一様に腰を上げ、それらすべての人々が花火の光に照らされて、やはり呆けたように立ちつくしていた。
人はどうしたって花火に魅了されてしまう生き物なのだった。
駅を経るごと徐々に人がはけ、わたしたちは無事、地元の駅へとたどり着いた。
このまま帰るのも勿体ないように思え、花火の余韻にひたって女房と一杯飲んでから帰ることにした。
やはり、家内の行くところに付き従って、損することはないのだった。