祝日の朝一番、家内を助手席に乗せクルマを本町の問屋へと走らせた。
寝具がセールになっているから息子たちのため毛布などを買うのだという。
開店と同時に寝具売場へと直行し大幅に値下げされたふわふわ毛布を息子たちのために選び発送を頼んだ。
そのほか、タオルなども真新しい方がいいからとついでに各種買い求めた。
目的を果たせば長居は無用。
家へととんぼ返りして、途中、地元の神社に立ち寄って家族のため年間祈祷を申し込んだ。
そこから精魂込めた家内の料理づくりが始まった。
昨夜帰宅の遅かった息子とその友人が起き出すタイミングに合わせて、ちょうど料理が仕上がった。
子どもにちゃんとしたものを食べさせたい。
家内の姿勢は子が巣立った後まで一貫していて揺らがない。
料理教室に通うだけで実践はしない、そんな自称料理好きな女性とは一線を画している。
食べきれない量を食べ終えて、腹ごなしに二人は前の公園でボールを蹴り、キャッチボールなどしてから西宮北口のジムへと向かった。
そんな様子をみて、改めて気がついた。
うちの息子たちをはじめその友人らはみな肉体派で、集まればカラダを目一杯動かし始める。
だからゲームに興じるといった姿など見たことがない。
そりゃ食事が少量で済む訳がないのだった。
午後、わたしは武庫川を走った。
かれこれ十数年にも亘ってここをランニングコースにしているが、なにかいつもと異なっていたのだろう、小さな段差に躓いてわたしは派手に転倒してしまった。
いつもと同じ。
何も変わらない。
そう見えて、しかしいつもと異なる。
そんなときがある。
二年前の5月、母が他界したときわたしは仕事を休まず普通の顔をして日常を過ごしていた。
日常の慣性というものは想像以上に暮らしに影響を及ぼしている。
だから、普通に過ごすと腹を括って日常に身を委ねれば、案外普通に過ごせるのであるが、しかしそうであっても、合間合間、気持ちは急降下していった。
当時を振り返れば、それら普通の顔をした時間が唐突に途切れ、ストップモーションのように流れの滞る場面が幾つもあったと見出せる。
この日武庫川にて転倒したとき、日常の流れは寸断されて、前後脈絡なくそこにはただただ急降下という事象だけが出現していた。