前夜から体調が思わしくなく、冬至の日の朝、咳が止まらなくなった。
以前処方してもらったフデスコを服用し、悪寒もあったからロキソニンも一緒に口に放り込んだ。
第三土曜は資源ごみの日だった。
北から強い寒気団が押し寄せ、この日の朝もことのほか冷え込んだ。
気力を振り絞って新聞と段ボールを集荷場所へと運んだ。
なんのこれしき。
と、思うが力が出ない。
料理づくりに励む家内の気配を階下に感じながら、わたしは二度寝を決め込んだ。
うつらうつらしながらわたしは昔のことを思い出していた。
ひとり暮らしだったとき、体調が思わしくないと寂寥感が募った。
独房で苦悶の時間を過ごすようなものであり、人はそんな状況に適応するようにはできていない。
そうしてしみじみと誰かと一緒にあることの幸福を思ったのだった。
わたしはしんどさのなかに確固と存在する安心感に目を注いだ。
なにかあれば家内がなんとかしてくれる。
そう思えば、咳も悪寒もなんてことはないのだった。
朝食はクエで出汁をとった雑炊で、風邪対策にとビタミンCのチューブを2本もつけてくれた。
これでなんとか一日を乗り切れる。
わたしは服を着替えて支度をして、クルマの助手席に座った。
一人だったらどこにも行かない。
根が出不精だから元気なときでもまあ家にこもって、こんな風に体調が悪ければ尚更。
つまりわたしにとっては家内が外界への扉といった存在ということになる。
さあどのような一日になるのだろうか。
一年でもっとも夜が長く、かつまた冷え込む日。
太陽の存在感がもっとも薄らぐ日だからこそ冬至は身近な人を思って過ごすのに最適な日といえるのだろう。
そもそもクリスマスだってそんな冬至にまつわるイベントだったのではないだろうか。