こんなことを続けていけば、カラダが奥からピカピカになる。
そう言うと、家内も頷いた。
ジムのセッションのメニューは決して甘くない。
こなすのが精一杯で、実に苦しい。
だが、その苦しさのただ中に「なんとも言えぬ心地よさ」がある。
終えた瞬間に達成感が得られ、手応えある爽快感が満ちて持続する。
これはカラダが歓喜しているからに他ならない。
仕事を終えた後は自由である。
いろいろな時間の使い方があるなか、かつては飲み屋に寄って帰るのが何よりの楽しみだった。
しかしいま思えば、そこで得られる満足感には常に「?」マークが付きまとっていた。
こんなことでいいのだろうか。
懐疑の矛先が自身に向き、ほろ酔いの上機嫌を突き破るかのような冷たい視線を感じた。
ここ最近は女房とジムへと赴き過ごす。
至って苦しいから、飲みに行くほど楽しくない。
が、必死にタスクをこなしカラダを痛めつけるうち、やがて訪れる喜びに包まれる。
そこに冷たい視線が入り込む余地は全くない。
帰宅し女房と向き合い、ささやかタンパク質をついばむ。
そんな安らぎの時間にお酒は不要。
これでよし。
いろいろな過ごし方があるなか、ここまで明確に断言できるものは見当たらない。
若い頃、すでに気づいていたはずだったが、この歳になって思い知らされた。
楽がもたらすものは無であった。
その無はやがて苦へと転じ、虚しさと後ろめたさを後に残す。
対して、練磨はまさに刻苦で、楽からほど遠い。
が、そこには清冽な喜びが潜んで心を潤し満たしていく。
それこそ生の謳歌で、人間にとっての本質的な報酬は、そこに凝縮されるのではないだろうか。
苦しみを受け入れる練磨のプロセスを通じ、人として少しずつ強くなる。
その強さが自分という存在の日常を支える。
奥から光るのであるから、すべてよし。
なんともシンプルなメカニズムに、ようやくわたしたちは気が付いた。