KORANIKATARU

子らに語る時々日記

その光は奥の奥から滲み出る

こんなことを続けていけば、カラダが奥からピカピカになる。

そう言うと、家内も頷いた。

 

ジムのセッションのメニューは決して甘くない。

こなすのが精一杯で、実に苦しい。

 

だが、その苦しさのただ中に「なんとも言えぬ心地よさ」がある。

 

終えた瞬間に達成感が得られ、手応えある爽快感が満ちて持続する。

これはカラダが歓喜しているからに他ならない。

 

仕事を終えた後は自由である。

いろいろな時間の使い方があるなか、かつては飲み屋に寄って帰るのが何よりの楽しみだった。

 

しかしいま思えば、そこで得られる満足感には常に「?」マークが付きまとっていた。

 

こんなことでいいのだろうか。

懐疑の矛先が自身に向き、ほろ酔いの上機嫌を突き破るかのような冷たい視線を感じた。

 

ここ最近は女房とジムへと赴き過ごす。

至って苦しいから、飲みに行くほど楽しくない。

 

が、必死にタスクをこなしカラダを痛めつけるうち、やがて訪れる喜びに包まれる。

そこに冷たい視線が入り込む余地は全くない。 

 

帰宅し女房と向き合い、ささやかタンパク質をついばむ。

そんな安らぎの時間にお酒は不要。

 

これでよし。

いろいろな過ごし方があるなか、ここまで明確に断言できるものは見当たらない。


若い頃、すでに気づいていたはずだったが、この歳になって思い知らされた。

 

楽がもたらすものは無であった。

その無はやがて苦へと転じ、虚しさと後ろめたさを後に残す。

 

対して、練磨はまさに刻苦で、楽からほど遠い。

が、そこには清冽な喜びが潜んで心を潤し満たしていく。

 

それこそ生の謳歌で、人間にとっての本質的な報酬は、そこに凝縮されるのではないだろうか。

 

苦しみを受け入れる練磨のプロセスを通じ、人として少しずつ強くなる。

その強さが自分という存在の日常を支える。

 

奥から光るのであるから、すべてよし。

なんともシンプルなメカニズムに、ようやくわたしたちは気が付いた。 

2025年10月8日朝 へぎ蕎麦と肉

2025年10月8日昼 針中野 喜多方ラーメン坂内

2025年10月8日夜 ジム後あっさり夕飯