日曜の朝、クルマを走らせジムへ向かった。
前回が2月9日だから、わたしにとってほぼ2か月ぶりのジムだった。
じっくり運動すれば、3時間は過ごすことになる。
忙しくて余裕のない時期、真っ先に削られるのがジムで、それで長期にわたって足が遠のいていた。
その間、代わりに武庫川を走りはしたが、結局、体重が2〜3キロほど増えた。
やはりジムは欠かせないのだった。
ジムに着いたとき、女房が言った。
今日が見納めになる、だから花見を先に済ませよう。
それで西宮北口から阪急電車に乗り芦屋へ向かった。
ちょうどさくら祭りが催され、芦屋川周辺は大勢の人で賑わっていた。
川沿いに咲く桜を眺めて歩き、お茶をしようと店を探すがどこも混み合っていて、結局、阪神芦屋駅近くのケーキ屋まで南下した。
のんびりお茶してクレープとケーキを食べ、今度は茶屋さくら通りへと足を向けた。
ここもまた、賑わっていた。
もと来た道をたどって駅へ戻り再びジムへ向かったが、疲れたと女房が言うので、わたし一人で泳ぐことにした。
多くの人が花見に出払っているのだろう。
プールはガラ空きだった。
水に全身を心地よく包まれて過ごしていると、さっき目にした場面がありありと蘇ってきた。
満開の桜と大勢の人々。
一瞬の輝きの中に人生の歓びや悲しみのすべてが詰め込まれたような光景が、まるで夢の中の出来事だったかのように思い出された。
一方、わたしにとっての現実は、水と格闘し規則正しく息を継ぐ「いま、ここ」にあった。
静まり返ったプールでわたしは自らの実存と向き合って、やがてわたしは真実に気がついた。
ガラ空きのプールを小一時間ほどでわたしは後にする。
次に誰かがこの場所で、彼の実存と向き合いながら泳ぐことだろう。
そのときここに「わたし」はおらず、別の自我がここにある。
ああ、なるほど。
夢見るように過ぎる存在の本質が全身で理解できた。
輪郭さえ定かではないわたしという個は絶えず移ろう時の流れのなか「いま、ここ」にしか存在し得ない。
そんな至ってシンプルな真実に気づいて思った。
やはり折々のジム通いは欠かせない。