途中、阿倍野近鉄に寄った。
この日、父の誕生日。
日本酒を物色する。
良さそうなものを選んで実家に向かった。
一升瓶抱えて寄るのはこのところの習わしのようなもの。
例のとおり何の予告もなく訪れたので両親は驚いた様子だった。
夕刻時である。
父はさぞかし喜ぶだろうと思って包み紙を破って箱を開け一升瓶を食卓にどんと置いた。
が、父の表情に困惑の色が浮かんでいる。
もう75歳、体調管理を思って日本酒を控えはじめた矢先であった。
好きだからこそ持て余す、できれば目にしたくない、父はそう言った。
今度みなが集まったときに開ける。
そう決まり、登場して早々に日本酒は舞台の袖へと引き下がることになった。
自然な流れで健康管理の話になって、これまた自然に余命の話になった。
75歳男性であれば、平均余命は11年。
まだたっぷり時間が残されている。
わたしは明るくそう言うが、11という数量に焦点当てればテンカウントがはじまるような数字でもあり、そこには老いへの不安も詰まっているから決して手放しで喜べるような数値ではなかった。
11という数にみなで向き合って場が重みを帯び始めていたので、視点を変えて、孫たちの11年後についてわたしは話題を移した。
こちらは上昇ベクトル。
楽しみ募るような話であって、視線も上向きになるから、場がおのずと明るくなる。
リキある孫らがずらり揃って目に浮かび、そこへと連なる何かをしかと感じて、老親の心は平穏へと至るようであった。
実家を後にし、自分の余命について考えてみる。
残り30年以上は生きる、そう当然のようにわたしは思っている。
30年と言えば結構長く、この大雑把な抽象が、やがては死ぬのだというリアリティを弱化させている。
その30年を、残り10年と置き換えて、いよいよテンカウントが始まるのだと想像してみる。
やはりどうやら、限りある時間に焦点を当ててこそ見えてくるものがある。
明日が人生の最後だと思えば間近に過ぎて、どう捉えていいのか焦点が合わない。
残された時間が少なすぎ、近しい者らにお礼を述べている間に何も考えられずに終わってしまうだろう。
せめて10年くらいのひとかたまりを前に心を整え、腹を決めて過ごしたいものである。
生のベルトコンベヤーが順々に人を運んで、向こう側へと連れ去っていく。
わたしも例外ではなく、そのベルトコンベヤーに乗せられている。
はるか後列にいると思っているが順番進んで、やがてはカウントダウンはじまる最終盤に差し掛かる。
が、向こう側を憂いたところで仕方ない。
向こう側のことなど誰にも分からないことであり、当たり前だが、わたし程度に分かるわけがない。
生まれる前と同じこと。
おそらく、何もないという状態に戻るだけのことなのだろう。
だから、あくまで大事なのは、こちら側。
ベルトコンベヤーの最終地点に差し掛かかり、向こうを見ても意味がなく、あくまでこちら側にだけ意味があるのだから、お終いとなる際の際まで、進行方向とは逆を向き後列のことを想ってそのため過ごすというのが最も腑に落ちる、納得感ある生き方になるに違いない。
つまり、どのみち無に帰するのだから急いて虚無にひたるより、お迎えくるまでは、踊らにゃそんそんと後列の者らとともに大ハッスルして過ごすのが得だと思うがどうだろうか。
そしてまた、終わりがあることも安堵であろう。
終わらない映画があれば、観ていて苦痛で仕方ない。
終わるからこそ清々しい。
大ハッスルして、そして終わる。
なんだか単純なことのように思える。
やはり今度もまた親父には日本酒を買って帰ろうと思う。
次回は一升瓶ではなく小ぶりなサイズにしよう。