わたしにとって日常は概ね2つの時間で構成されている。
仕事する時間と家で過ごす時間。
一日は仕事から始まる。
これから仕事、というときには多少なり気が張って肩に力が入る。
しかし、それも仕事の直前まで。
実際、仕事にかかるとすぐに心身馴染んで、少しは楽になる。
だからこの仕事はわたしに合っている。
そう考えていいのだろう。
もしずっと急いて力んで気が休まらないなら、滅入ってしまって続かない。
夕刻になると安らぎを覚える。
一日を乗り切った満足感と、その一日が余韻たっぷりに収束していくという感覚が心を満たす。
家で過ごす時間はただでさえ楽しく、仕事を終えた後であれば更に楽しい。
家内と食事しあれこれ話し、やがて息子たちが帰ってくる。
昨晩は二男が先に帰宅した。
友だちらと連れ立って皆で丸亀製麺の特盛うどんを食べた。
そんな他愛のない話を聞いて気持ちが和む。
上の息子は夜中になって帰ってきた。
塾の自習室は夜9時過ぎに閉まる。
それでは物足りない、ということで民間の自習室を利用することにした。
使い勝手良く快適便利で集中できる、という。
だから帰宅が遅くなる。
わたしが寝ていると模試の結果をもって長男がわたしの寝床に入り込んできた。
どれどれと眺める。
その間、息子がヘッドマッサをしてくれる。
これがヘッドロックであれば辛い話だろうが、ヘッドマッサなので心に沁みる。
息子たちも2つの時間を過ごしている。
家はくつろぎの場。
鍛錬の場とは別であるほうがいいのだろう。
行きつ戻りつ2つの時間が揃ってこそ、安らぎはますます深みある安らぎになり、だからこそ奮闘の時間の方でも全力投球できるようになる。
もし家にずっといたとして、それで安らげるはずがなく、外に出ずっぱりであれば、消耗し燃え尽きる。
主婦ではあるが家内にとっても同じことだろう。
取り組む何かが常にあり、真面目な性格なので努力を惜しまない。
そういう意味でわたしたち男衆同様、2つの時間が流れていることに変わりはない。
若かりし頃わたしは夢想した。
遊んで暮らす。
しかしいま、そんな夢想に未練はない。
遊んでばかり、というのは、実は何もできることがない、何も果たすことができない、という心もとない状態の裏返しであるかもしれず、そうであれば無能極まったいかんともしがたい事態だと言えなくもない。
そんなことが楽しいはずはないだろう。
責任感や向上心をもって真剣に取り組む何かがあればこそたとえ骨折りであっても、そこにささやか訪れる憩いの時間が無限大の輝きを見せることになる。
退屈極まる憩いよりはるかに魅力的なのではないだろうか。
だから一生仕事。
いまはそう夢想する。