昨年の昭和の日は風邪で寝込んだ。
生易しいような倦怠感ではなく熱も引かず、ただただ伏せて過ごすしかなかった。
しかしそうであっても単なる風邪。
すぐに治るという確信があるから、苦しみのなかにも安らぎと憩いがあった。
それが今年だったら不安募って恐怖に震えるばかりであっただろう。
幸い昨年の昭和の日とは異なりカラダの隅から隅まで元気そのもの。
晴天に恵まれたGW初日の休日、わたしは前日に引き続き明石で業務に勤しんだ。
昼過ぎに始まり終わったのが午後6時。
夕風に吹かれつつ駅のホームに立って解放感を噛み締めた。
この充実感が仕事の報酬みたいなものである。
列車が来るのと同時、家内からメールが届いた。
夕飯はもんじゃ焼きだという。
まっすぐ帰ると返信し窓側の座席にへたりこんだ。
同じ話をするのでもマスクをつけると負荷が増す。
終始話し詰めであったから負荷は累積していくばかりだった。
有り余っていた元気はすべて燃焼し尽くされ、日が沈んでいくのに歩を合わせ、頭のなかは無へと急降下していった。
車窓の向こうの海をただぼんやり眺め仕事後の余韻にひたって、更にカラダをシートに深く沈めた。
西宮ははるか彼方。
気も遠くなるほどの時間を列車に揺られ、着いたときには長い旅路を経て帰還したような気持ちであったから、眼前に見えた家の灯を懐かしいと感じた。
リビングに上がると家内はヨガのオンラインレッスンを受講中だった。
このところリビングの一角がオンライン授業やヨガのための多目的スペースになりつつある。
キッチンには二男。
彼がわたしのもんじゃを焼いてくれていた。
聞けば昼食も二男がパスタを茹でて支度整えたのだという。
右手に家内、左手に二男の姿を眺めつつ、わたしはスパークリングをグラスに注いでようやくの休日に身を浸した。
そしてこの日、最後にリビングに陣取ったのがわたしだった。
家内はすでに最終回まで見たというから、わたしひとりで『愛の不時着』を見始めた。
14話をみてやめられず15話もみて、残すは最終回である第16話のみとなった。
若い頃ならそのまま観たであろうが、翌朝も朝が早い。
あと二時間弱もドラマに夢中になれば仕事に障る。
理性を総動員し、最終回の鑑賞は翌日に持ち越すことにした。
主人公たちがハッピーエンドで終わりますように。
そう思ってその奇異を自身で笑った。
いったいわたしは誰のために何を願っているのだろう。