選択肢がある。
年齢を重ねるごと、それがあることの豊かさを痛感する。
昔は選択肢などなかった。
駆け出しの頃など、連日「やばい、やばい」と切羽詰まったような気持ちで眼前の分厚い壁にぶち当たっていくしかなかった。
だから「楽しいと思えない場所」へと赴くことも余儀なくされて、時に「関わってとても楽しいと思えないお客さん」とも目を瞑って鼻をつまんで付き合わねばならなかった。
いまも実質的には変わらぬ姿勢で仕事に対峙するが、一歩退いたアングルで状況を俯瞰でき余裕が持てる。
もし仮にいま、仕事一切から手を引いたとしても細々とであれば暮らしていける。
そこまで極端にならずとも、悪態をつく客があれば何ら一切媚びる必要はなくお引き取り願うことができ、「楽しいと思えない仕事」を前にわたしがぐずぐずしていても、事務所の若手がさっさと片付けてくれ、むしろその方が出来栄えもいい。
だからだんだん、「楽しいと思える場所」へと行く機会が増え、「楽しいと思える人」と付き合い「楽しい時間」を過ごす割合が質的にも量的にも増えてきた。
何もかも選択肢の為せる業ということができるだろう。
たとえば、仕事から一切を手を引くことができるという選択肢の存在は、ミサイルのボタンみたいにいざというときの抑止力として機能して、短気をせき止め仕事をよりいっそうのびのびと楽しいものにしてくれている。
子どもたちが育って、いい感じの男子となった。
今後わたしなどよりはるかに強く逞しく仕事して、わたしなど圧倒するくらい幸せで充実した人生を過ごすことになるだろう。
だからわたしは、楽しむだけ。
そこについてだけ選択の余地がない。