KORANIKATARU

子らに語る時々日記

個人的な伝説の話2


週末の仕事明け、夕刻の街路をクルマで進む。
ラジオから恋愛ミュージックが流れる。
醜男のくせして歌につられて往時をしのびそうになり、はたと気付いた。

モテたことのない人生であった。
しのぶような思い出などない。
この先含め出番もなければ惚れた腫れたと関わり合いになることもないだろう。

しかし、それでいいのではないだろうかと君たちには言っておきたい。
決して負け惜しみなどではない。

過去のない男」という映画がある。
アキ・カウリスマキ監督の映画を観ると、人間という存在が持つ優しさや善良さを再認識することができる。
人間への愛着が蘇る。

主人公が暴漢に襲われ記憶を失う。
そして一人の女性と出会う。
二人が心を通わせていくプロセスは、これこそ幸福の成り立ちそのものと言えるほどに心温まるものである。


そのような穏やかで満たされた関係に巡り合えるのであれば、過去の恋愛など何の足しにもならないであろうし、むしろ苦み走った記憶の残骸を意識の浜辺に打ち上げるだけであろうから、過去などない状態で出合うことは、結構いいことだと言えるのではないだろうか。

あれこれ女性遍歴を重ねてそれが肥やしになった、プラスに作用した、大満足だ、という話など聞いたことがない。
もちろん色褪せることなく永遠に輝く思い出といったものもあるのであろうが、男女の仲の終局であればたいていは澱のようにどろどろしたもの、いっそ記憶まるごと除去できるならそれに越したことはないという性質のものであることが多いに違いない。

そう認識すれば、浮足立ってあれやこれや目移りするのはまさしく若気の至りであって、得るものより実は取り返しつかず失うものの方が多いと想像できるだろう。

伴侶などは、何気ない拍子にそのうちどこかで巡り合う家族の一人というようなものだろう。
意気込むこともなく、しゃかりき探すわけでもなく、自然に好意が生まれ、そのままともに過ごすようになる。

相性合う相手は星の数ほどいるだろうが、あれこれ選り好みなどして運命かき乱すことなく、最初の方にぱっと現れた人と縁がある、といったくらいに思っていればいいのではないだろうか。
だからといって若気の至りで感性の呼応もないのに善は急げと早とちりし過ぎてしまうと痛恨の極みということになりかねない。

伴侶というものは、慌てず騒がず選り好みせず、虚心坦懐という目線となってはじめて見えるものであろう。

例えば、大学時代、一部の達者者を除いては奥手だらけの早大理工であった。
同期のうち少なくない幾人かは、学生時代に知り合った彼女とそのまま結婚し、その相手と当たり前のように家族として添い遂げるという流れにあるように見える。
それが一番いいのではないだろうか。

万一出会いがないとなれば、父が友人らに掛け合って探してこよう。
偶然の要素に任せっきりというよりは要は縁の問題なので心当たりから探るというのが順当とも言えるだろう。


帰宅し、アンコウ&カワハギの鍋をつつく。
何もフグばかりが鍋の主役ではない。

時折箸を休め「戦場のピアニスト」のサントラに耳を澄ませ山崎のオンザロックを傾ける。
ノートパソコンを開き、毎月発行される恩師のメルマガを読む。

面前に出れば誰もが竦み上がる。
伝説として語られるほどに強面の恩師ではあったけれど、ずいぶんと年月が経過したいま、日常の出来事や日頃の心情を綴ったそれら文章に触れると違った側面が浮かび上がる。
人生の大先輩に対し、素直胸襟開くような気持ちとなってメルマガを読み、その度一個の人間として深い親愛の情を感じるのであった。

月日の経過はやたらと早いものである。

まもなく、富山のホタルイカが解禁となる。
昨年3月、長居の天雲凛で出荷されたばかりのホタルイカを食べ、その後、酔い覚ましがてら大阪駅界隈をぶらりと歩いた。
冬の冷気残るなか春の到来を告げる暖かみを微かに感じ、とても朗らかな気分となったことをついさっきのことのように覚えている。
一年経つのが年々早くなっていく。